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崩壊って何 [日記]



一般メディアにも、崩壊という文字が散見されるようになりました。
ネットメディアでは、いろいろな警告が出るようになりました。
でも、国民の目には見えていません。
見えているとしてもギリシャのように遠くの場所での出来事と見えているでしょう。
「崩壊 ? なに、それ」「関係、ないね」
それは、崩壊という言葉に具体性がないからだと思います。

いろいろな記事がありますが、それは財政破綻に関し、危険ですよという警告であって、具体的にそのことが国民にどんな影響を与えるのかについては書かれていません。
財政破綻の危険を認識する人が、財政破綻の結果を推定できない筈はありません。
何故、誰もその事に言及しないのでしょうか。
私が日本崩壊を心配し、日記に書き始めた頃は「なぜ、財政破綻の危機を誰もが無視するのだろう」という疑問でした。警告記事がゼロだったわけではありませんが、数は非常に少なかったと記憶しています。
やっと、警告記事は増えましたが、財政破綻の結果がどうなるのか、という部分が見事に抜け落ちているのです。「危険だ」と言いますが、何が危険なのかわかりません。
これでは、庶民の目も耳もすり抜けて行ってしまいます。
今、必要なのは、破綻の先に何があるのか、ということではないでしょうか。
多くの国民が、一瞬でも目をとめざるをえないような、具体的な崩壊の姿が求められているのだと思います。
「金利が上がりました」「円が200円まで下がりました」「ものすごいインフレです」「財政が破綻しました」
「ああ、そうですか」で済むのでしょうか。
全て他人事で、国民生活には何の影響もない、なんてことがあるのでしょうか。
とんでもありません。
その痛みを真正面から受け止めるのは私達なのです。
漠然とした日本崩壊という言葉ではなく、長期金利が上がったら国民生活にどのような影響があるのか、日本国債がデフォルトしたら国民生活はどう変わるのか。その具体的なシミュレーションを多くの方に書いてもらいたいと願っています。

突然、長期金利が上がり始めたとしましょう。
国は、直ちに国民生活には問題ありません、と言います。
安全です、大丈夫です、と言います。
そうですか。
そんな筈はありません。
福島原発が事故を起こすまでは、安全です、大丈夫です、と言ってましたよね。
同じ轍を踏もうとしています。
違うとすれば、長期金利の場合は津波と違って、想定内のことです。
実際は、原発事故より悲惨な事態になることは想定内なのです。
財政破綻の結果、何が始まるのかを「書かない」のは、本当は「書けない」のです。
恐ろしくて、書けないのです。
私も、仕事として日本崩壊に取り組んでいたら、きっと書けないと思います。
でも、敢えて、そのことを具体的に「国民の生活がどう変わるのか」という視点で書かねばならないのではないでしょうか。

国民に、財政破綻がどんな事態を引き起こすかを知らせれば、パニックになって収拾がつかなくなると国は心配するでしょう。
国民のパニックが国を崩壊させることもあり得るのですから、国の心配も全く根拠のない心配ではありません。
でも、いつまでも、どこまでも隠し続けて、国民を闇討ちにするような行為はフェアではないと思います。
簡単な例を書いてみます。
参考値ですが、デフォルト直前の今のギリシャの長期金利は16%です。
日本の長期金利が急騰して11%になったとした場合、何が始まるのでしょう。
国債を発行している国が困るのは当然ですが、銀行にとっても大打撃となります。
それは日本国債を多量に抱えているためです。
銀行は預金の払い戻しに応じてくれなくなります。
こんなシミュレーションをしてみてください。

今度の震災でも、食料や水が店頭からなくなりました。
銀行が危ないとなれば、預金の引き出しのために銀行へ押しかけます。
庶民にとっては、至極当たり前なことです。
ところが、自分の預金が引き出せません。
これは、パニックです。
庶民は生活防衛を最優先にせざるをえません。
昨日3000円だった米が、6000円になっていたら誰もが買わずにはいられません。
国が「大丈夫」だと言っても信用する庶民はいません。
パニックは益々拡大します。
最大の問題は食料です。
食料の確保のために、人は全力投球をします。
当然の事ですが、暴力沙汰が至る所で発生するでしょう。
人間の生存本能は、あらゆるものを乗り越えます。食料確保のためなら、人間はどんなことでもできます。
警察が取り締まりを始めますが、警察官の数よりも庶民の数のほうが圧倒的に多いのです。
警察に治安の維持ができるでしょうか。
力で抑えようとすれば、どこかで血が流れます。
武器を使う場面も出てきます。
負傷者や死者が出てくれば、人間は動物に戻ります。
庶民が反抗しないのは、他人事の場合に限ります。
人間も動物なのですから、生存本能が最優先となります。

この程度のことは、妄想しなくても想像できる事です。
しかし、このような記事はどこにもありません。
国民にとって、日本崩壊が他人事に過ぎないのは、崩壊の結果が見えないからです。
崩壊は、ただの言葉に過ぎず、生存を脅かすようなものとは感じていないのです。
これは、とんでもない勘違いです。
あっと言う間に、死と隣り合わせの世界に変わってしまうのです。

実際には崩壊しないことが一番の対策であり、崩壊してしまえば、それを治める対策はありません。一部の人は日銀による国債直接引き受けで乗り切れると主張する人がいますが、それは延命治療に過ぎず、事態を悪化させるだけになります。
国には資産が充分あるから心配ない、と言う人がいます。それは、紙に書かれた数字に過ぎません。資産を実際に売る時は、二束三文でしか売れないものなのです。
「安全です」「大丈夫です」と太鼓判を押していた原子力政策が、実は掛け声に過ぎなかったことは明らかになってきています。
財政危機に関しては、もう誰も「大丈夫です」とさえ言わなくなりました。
数年前までは、「問題ない」「大丈夫」と言っていたのです。
安全とも大丈夫とも言えなくなったのは、それだけ事態が切迫しているからだと思わざるをえません。
今では、逆に、「危ない」と言ったじゃないですか、と開き直るかもしれません。
財務官僚も増税で乗り切れるとは信じていないと思います。彼等は、経済や財政の分野でトッププロと言われる人達です。増税が時間稼ぎに過ぎないことは知っています。
震災の影響ではなく、近い将来、国際収支も赤字転落すると言われていますし、GDPがマイナス成長になることもわかっていると思います。今は、増税で、いかに延命を図るかが彼等のメインテーマになっているのです。
では、その延命の先には、どんな事が待っているのですか。
悲惨な状況になることは簡単に推測できるのですから、誰も将来の推定はしたくないと思っています。
それが本音だと思います。
そんなことをすれば、自分の仕事にも影響します。腫れものに触れば、いい結果が出ないことは誰もが承知しています。それが、私達が持っている従来からの価値観です。でも、その価値観が通用しない世界が目の前に迫っているのです。その価値観にしがみつく価値はあるのでしょうか。

国の機関がシミュレーションを公表することは考えられません。国が公表するのは、自分達の利益に合致すると判断したものに限ります。
たとえば。
経産省は原子力発電所が来年春に全停止した場合、電気料金は一カ月当たり1000円の値上げになるという試算を公表しました。火力発電の燃料費が莫大な費用になるという説明です。日本の電気料金が世界標準の2倍も高いことには言及しませんし、企業努力も要求していません。勿論、天下り等の利権には全く触れません。自分達に都合のいい数字は素早く発表しますが、都合の悪い数字は発表しません。官僚は、原発を稼働させるか、料金を上げるかの二者択一を国民に迫っているだけです。しかし、この経産省の発表で、確実に原発容認の世論が増えます。国民が官僚になめられるのは、国民の側にも大きな責任があるのです。私達は「愚かな下々」から抜け出せていません。
いつまで、こんなことを続けるのでしょう。

子供は「なんで」「どうして」と言います。
親は「なんで、でも」「どうして、でも」と冷たい答えを返してしまいます。
答えに窮する質問もありますが、質問が際限なく飛び出してくるという心配もあります。
親には親の事情があって、いちいち答えてはいられないという理屈があります。
しかし。
子供だけが疑問や不思議を感じているのでしょうか。
子供には知識が不足しているだけなのでしょうか。
全知全能の親など、どこにもいません。
本当は、親も、疑問や不思議を感じている筈なのです。
生活が優先しますから、そんな疑問や不思議に時間はかけられないと思い込んでいる人が圧倒的に多いと思います。
その思い込みが、疑問を先送りする習性を作りだしました。
庶民なら、これが普通なのです。
でも、社会がこれほど普通でなくなった日本で、今まで通り「知らん」でいいのでしょうか。多くの方が「何か変だな」と感じている直感が正しいのではありませんか。
全ての国民が、天下国家の事を考えている訳ではありません。
国家のことを専門で考える人達、それが政治家であり官僚です。彼等が、国民のために仕事をしてくれていれば、何の問題もないのです。
でも、大変残念な事ですが、彼らが自分の強欲に支配されている今は、国民が自分たちの将来を心配する必要があるのです。
こんな時代もあるのです。

余談です。
生活保護費の受給者が200万人を超えたそうです。
200万人を超えたのは59年ぶりになるそうです。59年前といえば第二次大戦後の混乱期だそうです。今では想像も出来ないほど酷い時代だったと聞きます。
でも、これが2011年の日本の現状です。
生活保護費の申請は、書類を出せば受け取れるような、簡単なものではありません。
その厳しい条件をクリアしてしまう人が200万人もいるのです。
このニュースに衝撃を受ける人はごく少数でしょうし、国民の目にはとまらないと思います。それは、今のところ他人事に過ぎないからです。
本当に、そうなんでしょうか。
実際には、もう他人事ではないのではないでしょうか。明日は我が身だと思うことが、正しい受け止め方なのではないでしょうか。
どう考えても、今の日本は変です。
過去の延長線上に、明日の日本があるのでしょうか。
多くの分野の、多くの事象が、「ヤバイ」「ヤバイ」と告げています。
これだけ危険信号が出ているのに、無視していていいのでしょうか。
時代が変わったことを認める必要があるのではありませんか。
本当に、国民は何もしなくて、いいんでしょうか。

もう一つ、余談です。
IMFが日本に対し、消費税を15%にするように要請した、という記事があります。
IMFは、15%で日本の財政危機が回避できるとは言っていません。半分程度は賄えるだろうと言っています。しかも、すぐに実行すべきだとも言っています。
私も消費税の計算は、日記に何度も書きました。30%が一つの目途ですが、それで解決はしないと書きました。誰が計算しても同じ結論しか出ないのは当然のことですが、どこか不自然さを感じます。財務官僚は、怖気づいている政治家のケツを蹴っ飛ばすために裏技を使ったのではないかと思います。IMFは国際機関で、そこの職員は各国が派遣しています。日本の財務省からも官僚が派遣されているのです。日本の政治家は外圧には弱いという習性を利用しているように思えます。
たとえ、それが姑息な手段だと揶揄されても、やらざるを得ないギリギリのところへ日本が追い詰められているということなのではないでしょうか。
財務省は切羽詰まっているのです。
これも、危険信号です。

三つ目の、余談です。
アメリカの前FRB議長が、ギリシャのデフォルトは避けられない、と発言しています。ギリシャのデフォルトによりアメリカの銀行も影響を受け、二番底に沈む危険もある、と言っています。今や、世界中の銀行は自国の金融システムの中だけで存在しているのではなく、あらゆる地域の金融機関と密接な関係にあります。話題にはなっていませんが、ギリシャのデフォルトが日本の銀行と無関係だとは思えません。大怪我でない事を祈ります。
WSJ紙のコラムでも、ギリシャのデフォルトは動かしようがないが、真の問題はEU全体のあり方の問題で、その解決策は見えていないと書いています。そもそも、ギリシャは借金を返済する気がないようだ、と書かれていました。
アメリカのある金融の専門家は次のようにコメントしています。
「ギリシャは、どれだけ痛みを伴っても改革が必要であり、もし改革に同意できないのであれば、残る選択肢はドラクマの再導入だけになる。これはユーロ圏離脱を意味する。ドラクマ復活なら国内銀行がすべて破綻し、貧困層が増え、一人当たりの所得は東欧並みになる」
ドラクマというのは、ユーロを採用する前のギリシャ通貨の名称です。
ギリシャ国民の怒りも理解できますが、今になってデモをしても遅いのです。今まで、ギリシャ政府を放置して来たのはギリシャ国民なのですから、人員整理と給与カット、増税と社会保障の削減をギリシャ国民は受け入れるしかないのです。
たかが国債、されど国債です。経済規模の小さなギリシャでも、国債の償還が出来なくなっただけで世界を巻き込んでしまいます。デフォルトをしても、しなくても、ギリシャ国民は厳しい現実に直面します。それは、国民が政府を放置した代償としては大きなものですが、これは実際に欧州で今起きている事なのです。どこの国であっても、最終的には国民が辛酸を舐めることになるのです。
ギリシャ支援といっても、10兆円規模です。もし、日本が財政破綻した場合は、数百兆円の資金が必要ですが、IMFにそんな資金はありません。
日本がデフォルトすれば、世界経済に大打撃を与えます。各国は自国の再建で手一杯になり、日本を援助する余裕はないでしょう。
国際機関や海外からの支援もなく、独力で再建などできるとは思えません。
遠い欧州での出来事ですが、これも危険信号です。

補足です。
今日、数行ですが、治安維持の警察官出動を書きました。
警察官に対する意識が全国一律ではないことを書いておかなければ誤解を招きますので、ここで補足させてもらいます。
東京在住の方や機動隊のことを想像している方にとっては、警察官が治安維持に大きな力を発揮すると思っているかもしれません。
しかし。
崩壊の騒乱は局部的に発生するのでありません。全国規模になります。
大阪のおばちゃんにとっては、警察官など近所の悪ガキと何の違いもありません。
また、別の場所では、泣き虫坊主だった警察官の過去を知っている人が、その街の住人なんですから、身内同然です。
地方の警察官は住民と近い距離にいる普通の人達なのです。そんな警察官が、治安維持のためであっても、上官の命令であっても、銃口を住民に向けられるとは思えません。
また、そんなことがあってはなりません。
警察官が庶民のエネルギーを制御することなどできないのです。平時でなければ、警察官の力は発揮できません。


2011-6-18



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