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文学との出会い [文学系]


曲がりなりにも小説を書いているのですから、文学に関する日記もなくてはなりません。今日は少しだけそんな日記を書いてみます。
その前に、小説置き場なのになぜ経済や政治の話が多いのか。変ですよね。
それは、私の職業が「博徒」だからです。勿論、丁半博打の博徒ではなく、株取引という博打をしている博徒の方です。株取引で大損を出した経験のある方ならおわかりになると思いますが、社会的に認知されているとは言え、株取引は博打です。私も以前は大損を出したことがあります。最近は満足とは言えませんが、最低限の生活費はこの博打で稼いでおります。そういう立場ですから、小説はどうしても趣味の範囲を出ません。それが致命傷かもしれない、などと自分を慰める理由にしていることを否定しません。
さて、趣味は人それぞれですから、小学生の頃に自分の趣味が小説になることなど想像もしていませんでした。人の趣味をある方向に向けるものは、環境と人との出会いにあるように思います。例えば、父親が高校球児だったとか、天文学の好きな学校の先生に出会ったとか、お祖父ちゃんがアマチュア5段の棋士だったとか、です。
私の父は技術者で文学には全く縁のない人でした。ところが、中学生の時に家庭教師をお願いした隣家のお兄さんが作家志望だったのです。
父親がサラリーマンで各地を転勤する場合は、単身赴任という選択肢がありますが、私の場合は単身転校でした。中学二年の時に、東京の祖父の家に預けられました。そして、たまたま、隣の家にドイツ文学を専攻する大学院の学生さんがいたのです。英語もドイツ語もネイティブに喋る学生でしたので、英語の家庭教師をお願いしたようなのですが、ご本人は文学を職業にしたいと考えている人でした。二年弱ですが、私は文学青年を先生に持つ出来の悪い生徒になりました。
その家は広く、二階には外国人家族が住んでいました。別の場所にも家を持っていて、そこも外国人に貸していました。お父さんがいたのかどうか覚えていません。多分、家賃収入で生計を立てていたのだと思います。先生の外国語が流暢だったのは、店子とのコミュニケーションをとるために必要だったのでしょう。専攻はドイツ語でしたから、ドイツからお客さんが来た時は通訳としても活躍していたようです。
先生の部屋は四畳半程度の狭い部屋でしたが、壁は本棚になっていました。英語の勉強に行っていたのですが、どうも文学の話の方が多かったようです。
「どんな本を読みましたか」と聞かれましたが、私は本の名前を言えませんでした。今ほど漫画全盛期ではありませんでしたが、漫画か漫画に少し毛の生えた読み物しか読んだ事がなかったからです。
「どれでも、好きな本を持って帰っていいよ」と言われ、私はできるだけ薄い本を選びました。読書に意欲があった訳ではなく、成り行きで本を借りて帰っただけです。
「どうだった」と本の感想を聞かれても、答えられません。借りて帰った本はヘルマン・ヘッセの「車輪の下」です。おいそれと読める訳でもなく、ましてや感想など思いもよりません。それでも、成り行きで、次から次へと本を借りて帰ることになり、本を返すためには読むしかない状況に追い込まれてしまいました。これが、私の文学との出会いです。先生は同人誌を発行していて、その本も貰って帰ります。読書を趣味にしていない人間にとっては、かなり苦しい状況でした。
高校受験ではありますが、私はまぎれもなく受験生でした。あの状況が受験勉強になったのかどうか、はなはだ疑問です。高校に進学して、家庭教師と生徒の関係は終わりましたが、歳の離れた友人になっていたようです。夜中にラーメンを食べに行ったり、映画を見に行ったり。そして、旅行に行かないかと誘われて旅行にも行きました。彼は作家志望でしたからその小旅行を短編小説にしました。高校生という設定ではありませんでしたが、私も登場人物になっています。後になって、彼はその紀行記で芥川賞を取りましたが、私は大学に行っていた頃ですから、友達付き合いはありませんでした。今なら、芥川賞作家と友達だと自慢しただろうと思いますが、あの時の、私の反応は「へえ」で終わったように思います。随分歳が離れていたと思うのですが、友達付き合いをしてくれたのは何故だろう。彼は温厚で優しい人です。理由はそんな彼の人柄によるものだと思いますが、今となっては確かめる方法はありません。
彼は六人兄弟の三番目でしたが、早世の家系(他の兄弟の方も早くに亡くなった方がいます)だったようで、若くして亡くなりました。私の文章を見たら、彼はどう言っただろうかと思います。きっと、にこにこと笑いながら「いいんじゃないですか」と言うような気がします。そんな鷹揚な雰囲気を持った人でした。
当時の私は、文学を志すという考えはありませんでした。サラリーマンの息子ですから、サラリーマンになるのだという漠然とした固定観念に安心していたのかもしれません。
彼との出会いが私にとって良かったのか悪かったのか、未だにわかりません。高校の時から読書量が増え、ほとんど中毒症状になっていました。そして、大学受験に失敗。当然です。ほとんどの時間を読書に使っていましたから、受験勉強は形だけのものでした。余談ですが、私は一番というものに縁のない人間でしたが、高校時代に一番を取った事があります。学年で一番の欠課時間数という不名誉なチャンピオンです。学校を休んでいたのではなく、授業に出なかったことによる欠課時間です。図書室や屋上、時には喫茶店が私の常駐場所になっていました。卒業できたのが不思議なくらいです。こんな書き方をするとひ弱な文学少年みたいですけど、実際は殴り合いの喧嘩もする硬派学生でした。犯罪に手を染めてはいませんでしたが、隠れ不良の学生だったと思います。担任の先生に恵まれていて、その先生のおかげで卒業できたのだと思っています。
浪人して思った事、それは読書のできる環境を手に入れることでした。浪人中は小説を読まないと決めてましたが、頭の中は勝手にプロットを追いかけている状態です。それだけのことで、文章を書いていたわけではありません。本が読めないから夢想に耽っていただけの事です。それでも、何とかぎりぎり滑り込みの状態でしたが、三流大学に入学することができました。今から思えば実に甘い考えで生きていたと思います。よく、人生はプラスマイナスゼロだと言われます。その後の私の人生を見てみると、その通りだな、と納得してしまいます。
多分、大学の二回生だった頃だと思います。単位をとるために「表現法」という授業をとりました。夏休みの宿題で短文を出せば単位をくれる先生だと聞いていたからです。私は子供と犬の昼下がりという短文を提出しました。犬は「カール」という名前のシェパードで、私の実家で飼っていた頭のいい犬です。書いたのは私の実体験でしたが、先生の評価はAの上に、はてなマークがついていました。「どこかで見たような文章で気になります。これがオリジナルであれば、才能を感じさせます」というコメントです。どうやら、先生は盗作と判断したようです。盗作は学生の常套手段ですから、先生も抜かりなく読んでいたのでしょう。オリジナルかどうかが判定基準だったらしく、単位は貰えませんでした。ただ、私は初めて自分の文章を他人に読んでもらったことで、満足感がありました。でも、それだけの事で、文章を書いてみようと思うまでには至りませんでした。大学の四年間はほとんど遊ぶことばかりで、実にいい加減な学生でした。今が、いい加減ではないという意味ではありません。10年後には、今の私がいい加減な生き方をしていることにきっと気付くのでしょうが、まだ気付けていません。自分で納得のいくものが書けていないということが証明なのでしょう。自分で書きたい物語のおぼろげな輪郭は見えているように感じているのですが、そこに辿りつけるのかどうか、わかりません。
真面目に創作活動をせずに生きてきましたが、過去に一度、文学だけに生きてみようとしたことがありました。会社を辞め、失業保険を貰いながら小説を書こうとしたのです。誰からも無謀だと言われました。
あの時は一行の文章も書けませんでした。ただただ、息苦しくて、逃れたくて、言い訳ばかりして、無残な結果になりました。私の転落人生の始まりです。学生の頃は「いい子」だったと思いますが、それ以降は無謀の連続です。墓場まで持っていきたい過去が色々とあります。自伝小説のようなものは書きたくありません。
今の境遇は私に合っているのかもしれません。きっと強靭な精神を持ち合わせていないのでしょう。逃げ腰で書き飛ばしていると言われても反論はできません。
泣き言ばかり言ってるのなら、やめてしまえば。そう思う事もあります。
政治家や官僚を罵倒している時は強気な人間に見えるかもしれませんが、実際は気弱で根性無しが私の本質なのだと思います。
それでも、書きたい物語が書けるように、原稿用紙とは向き合います。シーシフォスの神話を地で行く事になるのかもしれませんが、行ける所まで行ってみようと。
二足の草鞋を履いている私が言うのも変ですが、小説なのに文章にはあまり拘っていません。読み易ければそれでいいと思っています。「そこがいけない」と言われてしまいそうですが、全体から人の生き様が感じられるものになれば成功だと思っています。ところが、そこが一番の難題でもあるのです。
私は人間の生き様を書きたい。純粋培養された善人や悪人ではなく、善人にも悪人にもなれる人間を書きたい。あなたも、あなたも、そして私も、自分の胸に手を当てれば、人間としてやってはいけないことをやった経験があると思います。それが生身の人間だと思うのです。そうでなければ人間の辞書に葛藤や後悔や懺悔という単語は必要ではありません。悪も善も、そんなあらゆるものを併せ持っているのが人間であり、そのことに苦しむのが人間のありのままの姿だと思うのです。もしも、文章に3D表現が可能であれば、立体映像の主人公を殴り殺したい思い、ある時は抱きしめて一緒に涙を流したいと思う、そんな主人公を書きたい。読んでくれる人の中に、一人でも二人でも、そんな主人公を身近に感じてくれるような、そんな人間の生き様を書きたい。格好いい主人公ではなく、実に格好悪い主人公が理想なのに、どこかで格好良く仕上げてしまう。これは弱さだと思います。
そういう観点からは、過去の作品は全て不合格です。だから、書き続けるのでしょう。いつか、納得のいく物語ができるまで。
他人の小説は、いいところも悪いところもわかるのですが、自分が書いたものはよくわかりません。何がいけないのか、どこに欠陥があるのかがわかれば、少しは向上出来るのでしょうが、どうも客観的に自分の作品を読めない。自分の作品を読み返していると、いつのまにか書き手になっているのです。困った事です。作り手ですから褒められれば嬉しいのですが、自分のためには辛口の批評が必要なのだと思うのです。
趣味とはいえ、書くことにかなりの時間を使っています。株で勝つ方法を研究する方が理に適っていると思うのに、プロットや展開で悩んでいる自分は何なのだろう。まして、日本崩壊などと訳のわからないことを言うのは何故。私が心配することではない、ですよね。それでも、訳のわからない事をやってしまうのが人間なのだと、どこかで自分を正当化する事だけは抜け目なくやっている。どうしようもない、弱虫です。
何を書いても「ボヤキ」になってしまう。ごめんなさい。
以前の日記で、私は読書に関しては雑食家だと言いました。極端な言い方かもしれませんが活字が好きなんだと思います。小説、ノンフィクション、哲学、詩、何でも手当たり次第ですのでポリシーがないと言えば確かにそうなのでしょう。苦手な分野は古文と俳句や短歌、そして女流作家です。読んだ事がないという意味ではありません。途中で挫折してしまうのです。女流作家でも、すごいなこの作者と思う人は何人もいますが、例えば宮部みゆき等は読めません。勿論、男性作家でも同じことなのだと思いますが、途中でギブアップしてしまう作品に女流作家が多いということも確かです。饒舌な作者が女流作家に多いのかもしれません。これは作者の責任ではなく、私の趣味の問題ですから、勝手にすればという範疇に入ります。
小説を書いているのに、私の日記は突然として話題が飛ぶ事があります。日記ですから、どうか大目に見てやってください。
中学や高校の授業に「哲学」という科目はできないのでしょうか。学校の授業になると、文科省は歴史を教えたがるのですが、哲学史ではなく哲学そのものに取り組む授業があればいいのに、と思います。哲学科在籍の大学生以外に哲学書を購入する若者はいるのでしょうか。哲学書との出会いは、人によっては衝撃的なものがあります。そのために人生が微妙に方向を変えてしまうことにもなりますが、「いい子」ばかりの社会がベストだとは思えないのです。
人は結論を欲しがる生き物ですが、そんなもの、どこにも無いのではないかと思っています。お笑い草なのかもしれませんが、いつまでも悩みを持っていたいし、そんな当たり前の人生を歩む主人公を書きたいと思います。前途多難。

最後に、文学に関する日記は、何故か重いと感じました。あれもこれも、書きたいことはいくらでもあると思っていましたが、書けません。ヨタ話の方が楽だと再認識させられたことを白状せざるをえません。ただし、ヨタ話を書くためにこのブログを作った訳ではありませんので、整合性を欠くブログになっていることを認めます。たかがブログ、されどブログ。難しい、です。


2010-9-18




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