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消極的選択でも崩壊は崩壊 [評論]

消極的選択でも崩壊は崩壊


この世には、正面切って逆らえない言葉がいろいろとあります。今日のテーマの「歴史と伝統」も、その1つです。
「歴史と伝統」という言葉を、どちらかと言えば、誇らしく受け止めている方が多いのではないかと思います。
いや、少し、表現を変えてみましょう。
「歴史と伝統」を積極的に否定する方はいないのではないでしょうか。
いや、もう少し、変えてみます。
そもそも、巷で言われている「歴史と伝統」って、何でしょう。
誰も、こんな疑問は持ちません。
何となく、「ふむ、ふむ」で、受け入れているのではないでしょうか。
天皇崇拝者、神社集団、多くの自民党議員は、「歴史と伝統」を口にします。
「歴史と伝統」は、私達が、敬意を払い、尊重し、従うべきものなのでしょうか。
違うと思います。
もちろん、これは個人の勝手な言い分です。私は「歴史と伝統」なんて「糞喰らえ」と思っています。そんなものよりも、今生きている国民の生活を、未来の国民の生活を守ることのほうが、はるかに重要だと思います。言い換えれば、過去よりも、現在と未来のほうが私達には重要だと思うのです。
変人の私が言うことですから、これは戯言だと思って読んでください。

さて、「歴史と伝統」は、私達の生活を楽にしてくれるのでしょうか。
もちろん、生活にゆとりがあり、趣味三昧が許される時代であれば、「歴史と伝統」は立派なアイテムになると思います。環境次第で「歴史と伝統」の価値は変わります。
今は、「歴史と伝統」が価値ある存在の時代なのでしょうか。
いつの間にか、深く考えることもなく、歴史を大切に、伝統を大切に、と思ってしまっているように見えます。いわゆる、空気です。「歴史と伝統」も、この国を動かしている空気の1つだと思います。目に見える利益はありませんが、逆に、直接の害はありませんので、いや、害はないと思い込んでいますので、歴史と伝統に目鯨を立てる人はいません。
確かに、権力者から見れば、「歴史と伝統」は華々しくて、誇るべき、成果なのかもしれません。でも、私達は権力者ではありません。
歴史って、何でしょう。
日本史年表を見れば一目瞭然ですが、権力者の歴史が書かれています。権力者の歴史だけが私達の歴史なのでしょうか。
もしも、庶民の歴史が歴史年表になったら、誇らしい書き物なのでしょうか。
もしも、庶民史を書けば、そこに書かれるのは、凌辱であり、強制であり、略奪であり、貧困であり、血と涙だと思います。
多くの庶民の貧困がなければ、文化や伝統は生まれませんでした。
庶民にとっての「歴史と伝統」は、本当は、屈辱の歴史なのです。
神社仏閣や都の建造物、大仏や仏像、枕草子や源氏物語、私達が誇りに思っている文化は、どうやって生まれたのでしょう。庶民の犠牲なしには生まれませんでした。
「歴史と伝統」を正当化し、誇りだと勘違いさせているのも、権力者の利益のためです。
「歴史と伝統」を大事にするということは、「お上」と「下々」という関係を容認することです。それが、歴史ですから。
こんなことを書くと「お前は、左翼か」と言われると思いますが、私は、左翼ではありません。右翼に異を唱えるのが左翼ではありません。
右翼の方が1割、左翼の方が1割だとすると、8割の方は、右翼でも左翼でもないのです。しかし、この8割の方は、寄るべき理念がないために、流浪の民になっています。皆さんは、天皇制や封建制がいいのですか、それとも、共産国家がいいのですか。そんな方は少ないと思います。明らかに、民主制がいいと思っている方が大半だと思います。しかし、民主主義の定義が曖昧なために、国民の理念になれていないのです。だから、「右か、左か」と言ってしまうのです。
封建制度でもなく、共産国でもなく、民主国家であることが庶民の本音です。

国民による国民のための国が民主国家だとすると、国は、国民生活を守ることが最優先課題になります。
しかし、貧しい人が増えているのが現状です。
国民生活が守られているとは、言えません。
全国に、「子ども食堂」が増えていることを見ても、明らかだと思います。
一方、権力者と言われる人達(お上と呼ばれるグループに所属している人達)は、庶民の数十倍の収入を得ていて、我が世の春を謳歌しています。
「お上」の一員になった国会議員は、口には出しませんが、「俺は頑張って国会議員になった。お前は頑張ったのか。これって、自己責任なんじゃないか」と思っているようです。
誰だって、自己責任だと言われれば、反論できません。でも、「お上」の一員になることが国民の目標なのでしょうか。
「お上」と「下々」という認識は民主国家では存在しないはずですが、民主国家に「お上」と「下々」という形を無理にはめ込もうとしているから、この国は衰退しているのです。
「下々」だと決めつけられた国民は、つい、「俺には関係ねぇ」と思ってしまいます。国力が国民力だとすると、主役である国民が「俺には関係ねぇ」と言っていて、国が繁栄するとは思えません。
だから、国力が衰退し、貧困層が増えているのです。
私達の国は、民主国家という看板は掲げていますが、民主国家ではありません。
それは、民主主義の定義も、国の定義も、国民の定義もないからです。
「なあ、なあ」「まあ、まあ」という空気で運営されているのです。「歴史と伝統」もその空気を生み出している一つです。
私達の国は、「歴史と伝統」に従い、民主主義風・王政並立・封建制度という制度で国家運営をやっているのです。この制度は、定義がありませんので、何でも正しいのです。何でも正しいということは、力関係で正しいことが決まってしまうのです。
では、左翼の方が言うように、貧しい人に、カネをばら撒けばいいのでしょうか。
そうではありません。
貧しい人を作らないような国家運営をしなければならないと思います。
それでも、不運は、いつの時代でも健在です。ですから、全ての国民が貧しくならないという国家運営はできません。ですから、1億2千万人で、100万人を助けるシステムは必要です。でも、1億2千万人で国会議員や官僚の優雅な生活を支えるのは間違いです。
では、どうすれば、貧しい人を作らないような国家運営ができるのでしょう。
国の目的と国民の目的を作り、国の責務と国民の責務を明確にし、限りなく全員で豊かな国を作ることです。
人間も動物ですから、栄養を摂らなければ生きていけません。そのためには、カネが必要です。ですから、国民は富を創り出さなければなりません。これは、人間の宿命です。人類が誕生した時から、ずっと、私達は食べるために生きているのです。これは、最強で最大の原則なのです。
私達は、「歴史と伝統」で飯を食っているわけではありません。「お上」が推奨する「歴史と伝統」は、腹の足しにはならないのです。「歴史と伝統」は、「お上」が「お上」という立場を守りたいための材料に過ぎません。何よりも、庶民にとっての「歴史と伝統」は、屈辱以外の何者でもありません。
「歴史」とは、2000年も続く、「お上」と「下々」という社会を指しているのです。
「お上」と「下々」という目に見えない呪縛から自由にならねばなりません。もちろん、この「お上」と「下々」という社会で、私達が幸せになれるのであれば、何の問題もありません。「下々」でも万歳です。しかし、もう、このままでは、私達は生き延びることですら無理になりつつあります。
もう、手遅れかもしれませんが、いや、手遅れだと思いますが、この国に必要なのは、国民が意識を変えることです。社会を変えることです。極論であれば、市民革命でもいいと思います。私達は「下々」ではなく「国民」になって、頑張るしかないのです。
誤解があるといけませんので、あえて、書きますが、「国民のために」「国民に寄り添って」「貧しい人達にカネをばら撒け」と言っている野党の皆さんも、「お上」の一員です。しかも、何の役にも立たない、理念の欠片もない、ただのゴク潰しにすぎません。自民党が悪代官だとすると、野党の皆さんは、文句タラタラの「お上」に仕える下男にすぎません。
歓迎はできませんが、自民党が権力を維持したいと思う気持ちは、理解できます。いや、人間は「欲」の塊ですから、仕方ないと思います。たとえ、自民党が「自分さえよければ」をやっていても、それを阻止する方法がないのであれば、国民が市民革命を起こせないのであれば、諦めるしかないのかもしれません。
でも、国民から数千万票の支持を貰っている野党は、それでいいのでしょうか。
理念を確立し、市民の先頭に立って市民革命をするだけの義理はあるのではないでしょうか。多分、そんな気はないのでしょう。とりあえず、今のままでも、数千万円のカネは貰えますから。
今、この国に必要なのは、言葉の定義であり、目的と責務であり、市民革命を含む国民の「熱」だと思います。死になくないのであれば、行動するしかありません。今こそ、百姓一揆を起こす時だと思います。
なんてことを言っても、誰一人賛同してくれる人はいません。
ですから、この国は、粛々と、壊れ続けます。
国民の皆さんは、消極的選択ではありますが、崩壊を選択しているのです。
「俺は、知らなかった。そんな話、聞いていない」なんて言わないでくださいよ。
皆さんには、それを知る責務があるのです。

このまま時代が流れていけば、経済の視点でも人口の視点でも、私達の国は時代を遡ることになるかもしれません。平安時代へ、縄文時代へと向かいます。
では、平安時代は、「歴史と伝統」が褒め称えるような、優雅な世界なのでしょうか。
平安時代と言われれば、十二単を連想される方もいるかもしれませんが、私が想像しているのは、庶民の暮らしのことです。芥川龍之介の「羅生門」を思い出してください。羅生門の界隈は死体の捨て場所になっていたのです。貧乏人が貧乏人の身ぐるみを剥ぐような時代の話です。
小説の中の光景ですが、現代の私達には想像もできない世界なのでしょうか。
私には、それほど遠い世界だとは思えません。
人間は、貧すれば鈍するのです。日頃、どれほど立派なことを言っていても、自分の身が危険になれば、生き残ろうとするのです。それが、人間です。
例えば、財政破綻をし、巨大地震に襲われ、凶作に見舞われ、食糧が枯渇した時、私達はどうするのでしょう。何度も書いていますが、不幸は束になってやって来るのです。
私は、「いい人」ではありませんが、「いい人」を演じることはできないと思います。必死に生き残ろうとすると思います。
国民の皆さんは、「いい人」を演じ続けるのでしょうか。
そうは、ならないと思います。
それでも、縄文時代まで遡ってしまえば、それなりに落ち着くのかもしれません。
人口の規模では、平安時代が500万人、縄文時代が数万人です。
平安時代の人口構成では、85%が農民でした。縄文時代は、ほとんどの人が、農耕と狩猟で生きていました。私達も、食うためには、農民になるしかありません。
他国に征服されなければ、日本の将来も、同じような人口構成になるものと思います。
これ以上想像すると、更に悲惨な未来になりますから、想像しません。
縄文時代も平安時代も私達の歴史です。
ただ、平安時代と言っても、平安絵巻のような優雅な世界ではなく、「羅生門」の世界へ戻るということです。
皆さんは、「歴史と伝統」を誇りにしますか。

この国のあり方に大きな影響を与えた人物がいます。
徳川家康という人です。彼は、凄い人だと思います。
平安時代にも戦国時代にも「お上」と「下々」という形はありましたが、それを完成させたのが徳川家康だと思います。
織田信長が天下を統一し、信長流の統治をしていれば、この国は別の国になっていたのかもしれません。
1603年に江戸幕府を開き、260年にわたる徳川時代の基礎を作りました。
それだけではありません。
2022年の今日も、家康が完成させた「お上」と「下々」は健在です。
家康は、死後、日光東照宮へ祀られましたが、そこにある三匹の猿は、今でも、日本中に睨みを利かせています。
400年間、影響を与えている人物は、徳川家康だけではないでしょうか。
でも、その400年の間に、何人の人達が理不尽な死を迎えたのか考えたことはあるのでしょうか。女性差別も根深く残っています。
これが、私達が大切にしている「歴史と伝統」の正体です。
昔も今も、貧乏人は虫けらと同じなのです。
この国は、2000年間ずっと、今でも、「お上」のための国です。
私達には、今の生活があり、未来の生活があります。「歴史と伝統」が私達の生活にとって利益でないのであれば、何の意味もありません。
国というシステムを運営する人達は必要ですが、「お上」は要りません。
皆さんは「下々」でいいのですか。
なんてことを言っても、どうすることもできませんよね。
何一つ確かなことはなく、全て、曖昧の中で、決まってしまうのですから、どうすることもできません。もちろん、独裁国ではありませんので、「お上」だけが得をしているわけではありません。貧乏人にも、おこぼれはあるのです。この匙加減が、実に絶妙に運営されているのです。
庶民は、貧乏人は、「お上」の国を打倒すべく立ち上がろうにも、立ち上がれません。
それは、根拠がないからです。
だから、「俺には関係ねぇ」と言うしかないのです。
コロナという大惨事に見舞われても、50%台の投票率に終わってしまうのは、多くの国民が「俺には関係ねぇ」と思っているからです。いや、手の打ちようがないと思っているからだと思います。
それは、この国が、民主主義風王政並立封建制度というやり方で運営されているからです。
「歴史と伝統」という呪縛のなかにいるからです。
今の私達の生活や、子供達の未来の生活よりも「歴史と伝統」のほうが大事なのでしょうか。
こんな視点で「歴史と伝統」を見る人はいないのでしょう。
見直してみませんか。
私は、私達の生活や子供達の未来の生活のための価値基準を作りましょう、と提案しています。そのために、「言葉の定義」をしてみてくださいとお願いしています。
このことに気付いてくれる日が来るのでしょうか。
国民の皆さんは、行動してくれるのでしょうか。
多分、そうはならないと思います。
それでも、奇跡が起きることを願って、書き続けるしかありません。


2022-01-01



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