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高齢者安楽死法案と若者の頑張り [評論]



先日は、餓死の事件を話題にしましたが、今日は、餓死予備軍の話題を、いや、まだ話題にはなっていませんので、話題になる可能性のことを書きたいと思います。
先日は、餓死予備軍として、生活保護費受給者の方々を取り上げました。
数的には、200万人です。
ここ数年、生活保護費受給者の数は210万人で推移しています。これは、水際作戦、別名では申請阻止作戦が功を奏している結果ではないかと思います。しかし、いつまでも、水際作戦が続けられるとは思えません。去年、私が勝手に推定した将来の生活保護受給者の数値は2000万人でした。いつ生活保護制度が崩壊するかによりますが、200万人から2000万人の範囲の国民の方が餓死する危険があるものと推察します。

次に、高齢者の餓死予備軍がいます。
低収入の高齢者は、大半が生活保護費受給者になるものと思いますので、上記の餓死予備軍の数値と重複すると思いますが、無年金の方を含めて、年額60万円以下の年金受給者が500万人存在しています。年額60万円ということは、月額にすれば5万円です。家賃と水道光熱費を支払えば、残りは僅かになります。この低年金の方は、女性が多いと思いますので、多くのおばあちゃんが餓死予備軍になると思われます。
年金制度で一番恩恵を受けている世代でも、この程度の低年金者は存在しているのです。これから老人になる人達は、もっと深刻な事態に直面すると思います。

次に、国力衰退と経済縮小の直接的な犠牲者が出てくると思います。
リストラと倒産の時代は、必ず、やってきます。国力衰退と経済縮小は、言葉だけのものではなく、失業者という形で現実のものになります。
仮に、職を失う方が1000万人いたと仮定しましょう。もちろん、何の根拠もありませんので、100万人でも、2000万人でも構いません。でも、そういう方は、必ず出てくると思います。再就職が難しい環境であれば、生活保護費の申請をする人は増えると思います。しかし、簡単に申請を受理してくれるとは思えませんので、失業者の多くが餓死予備軍になるのではないかと思います。

次に、ニートの方がいます。
推定値では、100万人と言われていますが、実数は把握されていません。
特に中高年ニートは餓死予備軍になる可能性が高いと思います。中高年ニートは60万人と推定されています。生活費を出してくれていた親が死ねば、アウトです。

こうやって見てみると、確かに乱暴な推定ですが、少なくても、数百万人の、多ければ数千万人の餓死予備軍が存在することは否定できません。
現在の国力衰退が、どの時点で限界を迎えるのかは不明ですが、何事もなく、丸く収まるとは思えません。

しかし、何よりも問題なのは、社会がこの現状を勘違いしていることです。
1. 皆で、餓死者を無視しています。
誰だって、自分が餓死するなんてことは考えたくもありません。無視するのは、当然の反応だと思います。ただ、それで済むのであればいいのですが、実際には、無視しても現実は変わりません。
2. 社会に、餓死予備軍という発想がありません。
それは、今日の延長線上に明日があると信じ切っていて、想像力が働かないことによる勘違いが起きているのです。今、新型コロナショックで観光業界が危機に瀕しています。それは、今日のインバウンド需要が明日も続くと信じて、投資をし、拡大を続けた結果です。これで、オリンピックが中止になったら、倒産する企業は増えます。常に、次善の策が必要だと思います。それは、想像することでしか、手に入らないものだったと思います。
確かに、新型コロナを予測することは難しいと思います。でも、予測可能な事態には対応する必要があります。今日の延長線上に明日があるという法則はないのです。
「まさか、私がこんなことになるとは・・・」とか「うちの子に限って」とか「こんなの初めてだ」という思い込みは、誰もが持っています。しかし、餓死予備軍は、厳然と存在しています。その現実に直面する日は来ます。想像しなければ、対策なんてできません。
3. 社会は、善意で満ちていなければならないという勘違いがあります。
皆さんは、ほんとに「いい人」ばかりですから、困っている人がいれば「何とかしたい」と思います。ほんとに誇るべき国民性だと思います。しかし、自分の頭の蠅を追っている時にでも、「いい人」をやっていれるのでしょうか。そうはならないと思います。やはり、一番大事なのは、自分です。環境が変われば、善意は無くなるものなのです。中国残留孤児が、なぜ、生まれたのでしょう。自分の命を守るためには、子供を置いていくしか選択肢が無かったのです。環境が変われば、人間も変わります。それが現実です。
4. 社会は、心地良い言葉を求めています。
皆が平和で、豊かで、幸せになる権利がある。その通りなのですが、それは、いつも、言葉だけです。言葉があれば、それだけで、「何とかなる」と思ってしまう。棚から牡丹餅が落ちてくるように、平和や豊かさや幸せがやってくるのでしょうか。それを実現する方法を考えるのが、私達の仕事なのではないでしょうか。言葉だけが踊っています。
「プラス思考」という言葉が好まれます。千分の一、万分の一の例を挙げて「夢を持とう」と言います。その言葉を否定はしませんが、前提は承知しておく必要があります。プラスもあればマイナスもあります。成功もあれば挫折もあります。「プラス思考」や「夢」という言葉が、現実逃避の道具になっているのではありませんか。誰もが持っている「不安感」を見て見ぬふりをする道具にしていませんか。
「人口は減るけど、生産性を上げれば、何の問題もない」と言われ、「ふむ、ふむ」と頷いていますが、意識も構造も変えずに、どうやって生産性を上げるのでしょう。言葉は大切ですが、言葉で現実を変えることは出来ません。中身のない言葉だけが溢れています。

ここで、「ひきこもり」を取材し続けているA氏の文章を、筆者に無断で転載します。この方を非難するつもりは毛頭ありません。社会現象の一つとして参考にさせていただくだけです。この文章を書かれた方は、ひねくれ者の私なんかよりも、はるかに、社会的に認められている方だと思います。しかし、そうではない社会が目の前にあるのです。今の社会での正論が、いつまでも正論であるという保障は無い事を知って欲しいと思うのです。

A氏の主張。
日本社会は働くこと、経済的自立に非常に高い価値を置く。だから、ひきこもりに対する政策や施策もより、よく働かせる就労支援が主体である。労働市場に押し出していくこととも言い換えられる。
 それは本当に当事者が必要としている支援なのだろうか。本当に当事者が求めていることは「生」そのものをありのまま無条件で受け入れる支援ではないだろうか。
 ひきこもり当事者に限らず、働かなくても暮らせたらいい、お金がたくさんあれば働かない、というような願望に近いものを我々も感じることがある。
 お金があるうちは、苦しい労働環境に身を置きたくないというのは本音として誰でも思うことだ。「緩く生きたい人たちが増えている」ということは緩く生きられない社会への問題提起、異議申し立てとして有効である。彼らの「生」をどのようにして、ありのままに保障するのか、緩くない社会の側が解を出さなければいけないのではないだろうか。
 働かなければ生きていけない社会というのは生きにくい、と本質的な問いを私たちに投げかけてくれているように思う。

「ニートの皆さんの生を、ありのままに受け入れる」必要があると主張します。
「働かねば生きていけない社会は生きにくい」と主張しています。
では、この方は、どうやってニートの皆さんを受け入れるのでしょう。国に面倒を見ろと言うことなのでしょうか。働かなくても生きていける社会を、どうやって作るのでしょう。
どう考えても、現実的ではありません。しかし、今の社会はこのような言葉を歓迎するのです。日本崩壊とか餓死なんて話は誰も聞きたくないと思っています。
少子高齢化社会に、何の対策もないまま突入したように、日本崩壊や餓死という社会に、何の準備もしないまま、突っ込んで行こうと言うのでしょうか。
どうしても、変えられない現実があります。
それは、生物は、栄養補給をしなければ生きていけないという現実です。
栄養補給をするためには食べなくてはなりません。
生きるために食べ、食べるために生きているのが人間なのです。
魚を獲って食べ、動物を殺して食べ、穀物を栽培して食べることで人間は生き続けてきたのです。これを労働と呼ぶのであれば、生きるということは労働するということです。食糧は、神様が恵んでくれたのではありません。これは、人間が生物である限り逃れられない運命なのです。
現代社会では、食べるためにはお金が必要です。ニートの皆さんは、親からお金を貰って食べ物を買って生きています。親が死ねば、お金をくれる人はいなくなるのです。社会は、ニートの皆さんにお金をあげるほど寛容ではありません。国が「働け」と言うのは、もっともなことです。「働きたくない人は、国が面倒見ますよ」なんてことは実現しません。働きたくないけど生きていたいという人達を、私達の社会はどうやって受け入れることが出来るのでしょう。答えなんてありません。言葉だけの絵空事なのです。
もう一つ、生産人口から離脱した高齢者が山のようにいます。私も、その一人です。長寿は目出度いことなのでしょうか。もう、そんな時代ではないと思います。私達老人は、自分が納付した年金保険料だけではなく、生産活動に参加している人達の納付した保険料と税金を使って生きているのです。残念ですが、私達は、何の役にも立っていません。昔、姥捨て山という考えがありました。社会が、役立たずの老人を山に捨てるのは、理に適っていると思います。しかし「お年寄りを大切にしましょう」という言葉のほうが喜ばれます。
こんなことを書く私が「変人」なのだと思います。誰からも喜ばれません。今の社会には歓迎されない類の人間なのでしょう。
では、この違いは、なぜ、生まれたのでしょう。
想像しているか、想像していないかの違いなのだと思います。
私達は、高度経済成長の余韻に浸ったまま、寝過ごしているだけであり、小子高齢化社会なんて「何とかなる」と思い込んでいただけなのではないでしょうか。
至る所に国力衰退の現象が出ているということは、想像しなかったことのツケが回ってきているということなのではないでしょうか。
餓死予備軍の皆さんが餓死者になった時に、「あちゃー」と言えば済むのでしょうか。
半端な数ではありません。2000人とか2万人とかではありません。数百万人、数千万人の餓死者が出る可能性があるのです。
更に、お金を手に入れる方法は、自分で働いて手に入れる方法と、誰かに恵んでもらう方法だけではありません。誰かから奪う方法もあるのです。国が崩壊すれば、警察官に支払うお金もなくなるのですから、治安なんて維持できません。力の強い者が生き残る社会になるのです。奪い合い、殺し合いが日常になります。
皆さんは、そんな社会を望んでいるのでしょうか。
望んでいないと思います。
だったら、その対策を、準備をしなければならないのではありませんか。
そのためには、現実を認め、想像し、対応するしかないと思います。
私達は、「人口、財政、戦争、災害、疫病」という五大災禍に立ち向かう必要があるのです。
その対策のために、高齢者安楽死法案が必要であるのであれば、私は賛成します。年寄りの私に出来ることはそれくらいしかありません。年金・医療・介護という社会保障費が激減すれば、この国は立ち直ることが出来るかもしれません。もちろん、その分、若者には頑張ってもらわねばなりませんが、きっと、やってくれると思います。

今の日本社会は閉塞感に満ちています。前後左右の壁を自ら厚くすることで居場所を狭め、天井は分厚い岩盤が、その重さで沈んできています。唯一、出口があるとすれば、床だけです。しかし、私達がいる場所は曖昧という空間にあるのですから、床が崩れたら落ちていくだけです。
それなのに、私達には、その状況が見えていません。
床が抜けて「あちゃー」と叫び、地面にたたきつけられて死ぬことになる人が大勢出ます。
「俺には関係ねぇ」と言っている場合ではないと思います。
皆さん自身も、皆さんの家族も、友人も知人も、顔見知りの人達も、皆、犠牲になるのです。
今、必要とされていることは、国そのものを作り替えることだと思います。
苦しくて、辛くて、長い道のりになると思いますが、このまま崩壊するよりは、多少、ましなのではないかと思います。再出発するためには、現状の八方塞のままでは難しく、何らかの犠牲が必要になると思います。餓死者という犠牲ではなく、実害の少ない高齢者安楽死による犠牲が妥当な選択肢になるのではないかと思います。放置すれば、どのみち、多くの高齢者が餓死するのですから、安楽死は、決して、非情な選択肢とは言えないと思います。空腹に耐え、日々失われる体力を感じながら、絶望の中で死を迎えることが望ましい死に方だとは思えません。
是非、言葉の定義をしてください。新しい国造りは、そこから始まります。


2020-03-06



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