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覚悟 [評論]



沖縄の辺野古移設問題が泥沼化しています。
国と地方自治体が裁判で争う事態となりました。
始めに、沖縄サイドから、この事態を見てみます。
私は、以前に、翁長知事は新手の交渉人だと書きました。相手は日本政府です。
沖縄の目的は、政府からの補助金を増額してもらうための条件闘争だと書きました。
最後の最後でどんでん返しをして、基地受け入れを表明し、更なる補助金の獲得へ向けて、また、新しい交渉人を選んだ。それが、現知事だと。米軍基地は利権であり、利権の有効活用です。前知事は、補助金獲得で大きな成果を上げましたので、もっと大きな成果を勝ち取るために、更に、強硬な手段を使ってでも、戦ってくれる知事を選んだのだと思っていました。だからこそ、老練な自民党出身の政治家が知事になったのでしょう。
しかし、翁長知事が迷走しているように見えます。
何があったのかわかりませんが、本気で基地闘争をしようとしているように見えます。
まだ、どんでん返しの方が実現性は高いと思っていますが、もしかすると、瓢箪から駒が出てくることもありえます。
沖縄県民だって、本気で基地闘争をしたいとは考えていないでしょう。
「もっと、補助金を獲ってこい」という願いで、翁長さんに票を投じたと思います。
ところが、最近の翁長知事の振る舞いを見ていると、「おい、おい、マジかよ」と思っている県民も多いと思います。
沖縄経済が、現状維持をしようと思えば、補助金なしでは成り立ちません。
このままでは、墓穴を掘ることになります。
前知事も、県外移設を言い続け、一転、辺野古移設を容認しました。その決定に沖縄県民はリコールをしませんでした。沖縄は現実的な対応をしたのです。「誇り」よりも「カネ」の方がいいと言う人の方が圧倒的に多いのですから、不思議なことではありません。
翁長知事と菅官房長官は一か月間停戦をし、話し合いをしたはずですが、当然、カネの話も出たでしょうが、翁長知事は頭を縦に振らなかったのでしょう。
もし、本気で、翁長知事が暴走をし始めたのであれば、沖縄県民の利益は失われる危険があります。沖縄県民は、知事のリコールを考える必要があるかもしれません。裁判が行われている間に基地は出来てしまいます。裁判所は、出来上がった基地を破壊しろと命じることはありません。沖縄は、1円の補助金増額もなく、基地の移転が完成してしまうのです。

では、国はどうしようとしているのでしょう。
カネで決着できないのであれば、政府に打つ手はありません。
官房長官発言にあるように「粛々と工事を進める」ことになります。
ただ、粛々と工事を進めると言いながら、東京の機動隊を派遣するのはいかがなものかと思います。反対闘争をしているのが、本土からやって来たオルグだとしても、それに対抗して本土の警察を投入するのは、脅しに過ぎません。「国家権力で押し切るぞ」と言っているようなものです。ここまで来ると、餓鬼の喧嘩です。
誰も得をしません。
沖縄県民の総意が、「誇り」にあるのであれば、政府には「弾圧」という手段しか残されていないと思ったのでしょうか。それは、勘違いです。
勘違いは不幸を生みます。沖縄県民の総意は「カネ」です。もちろん、「カネ」の要求は青天井です。だって、米軍基地は最強の利権なのです。沖縄県民の要求に応えられないのであれば、国防政策を構築することです。過去の先送りが、この膠着状態を作り出しているのです。この現実も、これほどの利権を作り出してしまったことも、原因は国家運営の瑕疵にあります。
この問題の根っ子は、国防政策の不在にあります。
国防を議論することなく、日米安保が防衛の基軸だとしていることに誤りがあります。
あくまでも、自分の国は自分で守ることが原則であり、軍事同盟はその補完でしかありません。その補完策である軍事同盟を基軸だとしている異常さが根っ子にあるのです。
そのボタンのかけ忘れについて、誰も言及しません。現状を肯定し、現状を逸脱しない範囲で修正しようとしているのですから、条件闘争という軋轢が生じるのです。

ここで、誇りもカネも無視してみましょう。
誇りよりも、カネよりも大切なもの、それが命です。
この命に着目した時、基地反対は正しい道になります。翁長知事が、そこに気付いているのであれば、彼は、それを県民に知らせるべきです。
中国人民軍のミサイルが、沖縄に照準を合わしているミサイルが、何発あるかは知りませんが、かなりの数になると想像できます。とても、パトリオットでは防ぎきれません。人民軍の照準精度は向上したと言われていますが、米軍基地だけに落ちるとは限りません。人民軍としては、米軍が基地外に一時避難することも想定しなければなりません。沖縄全域を焦土と化すほどの攻撃が必要だと思っているかもしれません。相手は違いますが、第二の沖縄戦が行われる危険は存在しているのです。
補助金なんていらない。誇りもカネもいらない。命が一番大事だ。あの、米軍相手の沖縄戦で多くの犠牲者を出した沖縄県民には、選択肢の一つになっているはずです。
そのためには、沖縄県民は現状を否定しなければなりません。
観光産業しかなく、貧困に苦しむことになりますが、命を守るための選択であれば仕方がありません。沖縄県民が腹をくくれば、一朝一夕に実現はしないでしょうが、可能性は生まれます。覚悟さえあれば。
あれも欲しい、これも欲しいは通用しません。あれも嫌、これも嫌も通用しません。何かを得ようとすれば、何かを失うのです。
もしも、翁長知事が、補助金は全部返すから、米軍基地は全部撤去してくれという要求をするのであれば、筋が通ります。でも、そんなことをして、県民が喜んでくれるとは思えません。
「辺野古移設反対」は、選挙戦の一つの道具に過ぎなかったはずです。
翁長知事、あなたは、何がしたいのですか。
共産党が野党連合を提案しました。大阪では自民党と共産党が共闘しました。沖縄でも、県民の意思を無視して、共産党と共闘しているようにしかみえません。これも、崩壊の過程なのでしょうか。


ここで、僭越ながら、私の提案を書いておきます。
沖縄基地問題。
これは、国防の話です。
国防とは、戦争のことです。
日本の防衛を考えた時、沖縄という土地は重要な土地になります。
アメリカと戦争をした時も最前線になりましたし、中国と戦争することになっても、沖縄は最前線の戦場になります。そこに、多くの民間人が生活をしているのです。
ここで、「曖昧」や「まあ、まあ」を排除してみてください。そうすれば、沖縄の人達は命を差し出していることに気付きます。米軍基地は日常風景になっていますから、慣れっこになっていますが、国防とは戦争を前提にした話なのです。
沖縄の人達は、もっと、過去の沖縄戦を学習するべきです。
そうすれば、自分達の命の値段を、国に請求すべきだという視点が見えてきます。
沖縄が抱えているのは、地位協定という小さな問題ではありません。
戦争になれば、真っ先に、生き死にの問題に直面するのが沖縄県民なのです。
しかし、誰も、そんな生臭い話はしません。
命を金に換算してはいけない、という人もいるでしょう。
でも、もしも、戦争になったら、いや、防衛問題を議論する時には、戦争になることが前提で議論すべきだと思いますが、実際に多くの民間人が犠牲になるのは明らかです。シミュレーションをすれば、犠牲者の数は簡単に算出できます。防衛省内部には、そのデータがあると思います。
その事を明確にした上で、沖縄県民が決めるべきことです。
補助金を全額返して基地の撤去を要求するか、人命代として巨額の保証を要求するかの二者択一になります。翁長知事は、このことを明確にして住民投票を実施すべきだと思います。何を選択するのかは、知事が決めることではありません。
沖縄県民の人命が曖昧になったままですから、いろいろな行き違いが生まれるのです。過去の経緯に囚われているだけで、できるだけ多くの補助金を獲得したいという思惑と、できるだけ補助金を抑えたいという思惑の戦いをしているだけです。政府も沖縄も、住民の命の話にはしません。でも、実際に何が起きるのかと言えば、戦争になれば、住民が殺されることになるのです。70年前に、それは現実になりました。もしも、戦争にならないと保証が出来るのであれば、政府は口先ではなく、それを県民に証明するべきです。
しかし、政府がどれほど説明をしたとしても、沖縄が危険な場所にあることを否定することは難しいでしょう。沖縄は、地政学的に大変不利な場所に、現に、存在しているのです。
曖昧を排除し、論点を明確にし、覚悟を決めれば、方向は見えてきます。
そうなれば、最初に国防論が必要だったことにも気付くかもしれません。
日本防衛のため、抑止力の向上のため、という話はよく出ますが、人命の話は一切出てきません。日本政府は、人命を表には出しませんが、この曖昧を容認しているということは、沖縄県民に再び玉砕を求めていることと同じです。それは、具体的な国防論がないためです。現実を真正面から見ない限り、生身の命は表現できません。日米安保が基軸などという無責任が、平和ボケに繋がっているのです。
防衛とは戦争であり、殺し合いなのですから、必ず犠牲者が出るのです。
それを一番知っているのは、沖縄県民の皆さんなのではありませんか。
もちろん、共産党が出てくる場面ではありません。
これは、沖縄県民の、命の問題なのです。
命の危険に直面している沖縄の人達でさえ、そのことを曖昧にしたままなのですから、本土の国民が沖縄基地問題に無頓着なのも仕方がありません。共産主義というイデオロギーの餌食になるのは、国民に日本の防衛論が伝えられていないからです。いや、防衛論がないから、伝えることができないのです。
これは、行政の手続きの問題でも、裁判の問題でもありません。
人命という根っ子がポッカリと抜け落ちているのです。
どうして、そのことが、論点にならないのでしょう。
また、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で何十万人もの犠牲を出すのですか。
沖縄の皆さんは、それでいいのですか。
70年前、時の国家運営者は沖縄住民のために何かやってくれましたか。今の政府なら、沖縄県民のために何かやってくれるのですか。彼等に何が出来るのでしょう。いや、彼等には何もできないと思わねばなりません。
自分の命は自分で守らなければならないのです。
これは、「カネ」や「名誉」以前の大原則なのです。

もしも、仮に、米軍基地の全廃が実現したとしても、その確率は0.1%以下かもしれませんが、それでも、中国人民軍は沖縄に上陸するでしょう。その時は、中国国旗を振って人民軍を歓迎すればいいのです。人民軍だって、赤い小旗を振って、笑顔で迎えてくれる人達を殺すことはないと思います。



話題は変わりますが、色々な場所に尊王論が芽を出し始めています。
困った時の神頼み。
それは、日本の閉塞状況から生まれています。
でも、これからは、この閉塞感はもっと深くなります。
日本人は、付和雷同の名人ですから、尊王論は更に大きくなります。
これは、大変危険です。
尊王論は、一部の人達が天皇を利用する社会を築くだけです。
決して、国民のためではありません。
これでは、日本国民は、いつまで経っても、国民にはなれません。


2015-12-05



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