SSブログ

問題意識 [評論]



11月に「行政事業レビュー」という会合が開かれました。
自民版の「事業仕分け」だそうです。
色々な驚きはありますが、今回で3回目だそうです。「へえー、毎年、やってたんだ」というのが、率直な感想です。
一番大きな驚きは、未だに、政治家が官僚に勝てると思っていることです。
民主党が華々しく「事業仕分け」を行い、蓮舫議員は時の人になりました。では、あの「事業仕分け」で何が変わったのか。槍玉に挙がった事業は、名前を変えたり、別枠で予算を獲得したりして、官僚サイドに実害はありませんでした。
自民党は、民主党の失敗に学び、儀式化という道を選択しましたが、河野議員を行革大臣にしたことで、馬脚を現すことになってしまいました。河野議員を大臣にしなければ、粛々と、滞りなく、儀式は進められていたはずです。安倍政権の狙いは何だったのか、よくわかりません。原発再稼働が政権の基本方針ですが、河野議員は「反原発」を言い続けてきました。自民党の中では「異端児」と呼ばれているそうです。今年の「行政事業レビュー」でも、槍玉に上がった55事業の内、19事業が原発関連の事業です。でも、彼は「異端児」なんかでありません。「事業仕分け」もどきの「行政事業レビュー」をやってニコニコしているようでは、本物の「異端児」が嘆くことになります。ほんの少しだけ毛色の違う貉の一種でしかありません。
でも、まあ、あくまでも、これは儀式ですから、目鯨を立てることはないのでしょう。中身はわかりませんが、きっと、何か、全く別の意図があるものと思います。
槍玉に上がった55事業を担当する部局が、籤引きで決められたのだとすると、籤運の悪かった部局長は恨まれているかもしれません。それは、予算が無くなり、利権が失われるためではなく、余計な仕事をしなければならなくなったためです。どのみち、利権が失われることはありません。でも、辻褄を合わせるための残業は発生します。
人間がやることですから、どんなことにでも無駄や不正はあります。それは、個人の生活の中にでもあります。無駄や不正を体験したことのない人はいません。ただ、その無駄や不正が、大きな実害に繋がっている時が問題なのです。その認識もなく、無駄や不正を追及しても意味がありません。
河野議員は、真のボスが誰なのか、まだ、わかっていないのかもしれません。この国のボスは官僚なのです。現在のシステムで、官僚に立ち向かっても勝つことはできません。国民相手であれば、簡単にできるのは、そういう力関係が出来ているからなのです。
たとえば、生活保護受給の不正を取り上げ、生活保護費全体の給付削減に成功したのは、相手が国民であり、法律という国家権力があったからです。選挙が儀式になってしまったために、国民は政治家に対抗する力を持っていません。でも、官僚はその力を持っているのです。政治家の皆さんに、官僚を取り締まる法律が作れるのですか。とんでもありません。政治家は、官僚におんぶに抱っこの状態なのですから、官僚抜きでは仕事ができません。政治家は、自分が利権のボスだと思い込んでいるかもしれませんが、政治家は官僚から利権のおこぼれを貰っているに過ぎないことに気付くべきです。だって、利権の実務は官僚が取り仕切るのです。彼等は、何だってできるのです。
官僚サイドから見れば、「行政事業レビュー」は笑止千万な儀式なのです。でも、取り敢えず、儀式はこなさなければならないという大人感覚は持っていますので、儀式に参列しているに過ぎません。つまり、あの「行政事業レビュー」も数ある茶番の一つに過ぎません。
もしも、本気でこの国を救いたいと思うのであれば、政治家は、先ず、官僚を屈服させることができる法律を作ることです。それも、革命です。「反原発」という問題意識だけでは、革命はできません。官僚の方が頭はいいし、人数も多いのです。常識では太刀打ちできません。非常識を選択しなければならないほどの問題意識を持たなければ、革命など出来ないのです。
何のために、革命が、必要なのか。それがわかっていなければ、何も始まりません。
現状肯定や現状維持の上では、革命思想は育ちません。
では。
革命を必要とするような事態は起きないのでしょうか。
それは、想像することでしか、手に入りません。
人間だけに与えられた想像力という能力を使う時なのです。

このブログは超弱小ブログですから、炎上することはありませんが、炎上するほどのメジャーブログになって欲しいと思っています。もっとも、それは私の努力不足が最大の原因ですから、反省はしています。
革命を必要とするような事態。それが、国家崩壊です。
目の前に、国家崩壊が見えていれば、儀式をやっている場合ではないと気付きます。
もちろん、日本崩壊論を否定するのは、自由です。
でも、この先も、日本は安泰だという主張が、どこにもないのはどうしてなのでしょう。
50年後の債務残高は8,000兆円です。
どうすれば、克服できるのでしょう。
「なんとなく」「漠然と」「何とかなる」と思っているだけです。
ほんとに、そうなんですか。
政治家や官僚という国家運営者は現状維持という土俵に埋没しています。外界が見えなくても仕方ありません。彼等は、想像力にも縁が無くなっています。ですから、最後の砦である国民が気付くしか方法はないのです。そのことに気付けなければ、国民も彼等と同じ穴の貉に過ぎません。全員、声を揃えて、「あちゃー」と言うことになります。
現状認識も持てない、将来展望もない国家運営者に任せておいていいのですか。



日銀が国債を買いあさったとしても、借金が減った訳ではありません。
1,000兆円の借金は、現に、あるのです。
その借金を返すのは、国民の皆さんなのです。
返済資金は天から降ってくるのでもなく、地から湧きだすのでもありません。
国民の税金や預金から支払われるのです。
これも、現実なのです。
そのことに気付いている国民がいません。
国民の支払い能力にも限界があります。
返済できないから、私達は命を差し出すのです。
どうして、その現実を、まるで存在しないかのように扱うのですか。
このことに気付けば、アベノミクスや軽減税率や「行政事業レビュー」で茶番をやっている場合ではないはずです。
人命は地球より重い、なんて正義は吹っ飛んでしまうのです。
借金の元本は返済しなくてもいい、という人達がいます。特に、国の借金の場合は利息さえ支払えれば、安全は確保できると言います。100歩譲って、その説を認めたとしましょう。ここにも「れば、たら、もし」があります。「利息さえ支払えれば」の「れば」が成り立たなくなり、「利息が支払えなくなったら」という「たら」に変化したら、どうするつもりなのですか。踏み倒すのですか。それは、経済活動の根っ子を否定することになり、この国では経済活動が成り立たなくなってしまいます。経済活動は、暗黙の了解の上に成り立っているのです。たとえば、経済活動の典型的な基盤である貨幣経済が成り立っているのも、暗黙の了解の上です。1万円札に1万円の価値がないことは誰でも知っています。1万円札が信用できなくなれば、経済活動なんてできません。利息を踏み倒すということは、暗黙の了解を破棄することであり、ひいては、1万円札を否定することになるのです。
長期金利が上昇し、支払わねばならない利息が増え続ければ、楽観論に支えられた「れば」は簡単に否定されます。毎年、毎年、15兆円もの利息支払いが増え続ければ、明らかに、私達の支払い能力を超えてしまいます。長期金利次第で、それが現実になるのです。
経済活動がなくなっても、国民生活はできるのですか。私達は労働に従事して、その対価を手にし、生活を維持しています。これも経済活動です。国が率先して経済活動を否定すれば、国が否定しているのですから、民間が否定しても不思議ではありません。皆さんの給料が支払われなくても、問題はないことになります。
こんなことは、経済の「いろは」です。「いろは」が守れない経済活動なんて存在しないのです。
私達が議論をしているのは、枝葉のことばかりです。
もちろん、そんなことは、10年後であれば、誰にでも理解できることですが、その時に気付いても「後の祭り」でしかありません。
私達は、今、その根っ子の部分を議論しなければならないのです。
1,000兆円の借金は、1円も減っていないのです。
現実を無視すれば、先送りをすれば、「なんとかなる」なんてことはありません。
私には、国民の皆さんが仲良く感性を失ってしまったとしか見えません。
いつから、皆さんは貉の仲間入りをしてしまったのですか。
もう、この国に、人間はいないのですか。


2015-12-04



nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(1) 
共通テーマ:blog

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 1