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国民を騙す仕事 [評論]



武士道とは、死ぬことと見つけたり、という言葉があります。
国家運営の仕事とは、国民を騙す仕事と見つけたり、という言葉はありませんが、現実はその言葉に相応しいことばかりです。しかも、あらゆる場面で、途切れることなく、現在進行形で続いています。
しかし、多くの方が個々の事象に対して言及しているだけで、根っ子は蚊帳の外です。
これは、視野狭窄という病です。
この視野狭窄症状はあらゆる分野に共通しています。それは、全体を俯瞰するという視点や将来を見通すという視点が金に結び付かないことが原因なのでしょう。特に、将来を見通す視点を表に出した時は、自分の利益を失うことを恐れなくてはなりません。多くの方が、いや、ほとんどの方が、現状維持を望んでいるために、自分の手で、無意識に視野を狭めているのでしょう。
いつの時代でも、視野狭窄という症状はありますが、これほど深刻な視野狭窄は平成時代の特徴なのかもしれません。今は「カネ・カネ・カネ」です。もちろん、お金は大事です。「お前は、金で転ぶことはないのか」と問われれば、「転ばない」と断言する自信はありません。でも目先の金だけに執着していていいのでしょうか。
どんな時代でも、体制に反対する勢力は必要です。でも、左翼の皆さんも朝日新聞も、戦後体制の中でぬくぬくと反旗を掲げているだけで、国民と同じような視野狭窄病にかかり、的を外した反論に終始します。これでは、反体制勢力にはなれません。勘違いの反体制勢力しかいないことも、この国の不幸です。
国家運営という仕事では、何度も、何度も書いていますが、根っ子は「国とは、国民とは、民主主義とは」という議論であり、定義だと思います。
もう一つは、根源にある人類のお約束である「生き延びる」という当たり前のことが忘れ去られていることです。
「取り敢えず」が優先し、目先の利益に執着しすぎるために、自分で自分自身を危険に晒していることにも気付くことができない。これは、視野狭窄という病気の症状です。
目先の利益に執着したことで罹患した視野狭窄という病気は、私達が積極的に選んだものではないとしても、抵抗もせずに受け入れたのですから、何が起きても、自業自得だと思わねばなりません。私は日本崩壊がヨタ話だとは思っていません。この国が崩壊しても、それは自業自得にすぎないと思っています。その全責任は、私達国民にあります。たとえ、国民が主権者でない体制の国であっても、国家運営の失敗は、国民がその責任を取らされるのです。まして、国民を主権者とする看板を掲げている私達の国では、責任を国民が背負うのは当たり前のことです。ほとんどの国民が、そのことに気付いていません。
過去の歴史には、史実として記されていませんが、数々の難関をくぐり抜けてきた歴史の裏側には、人間の直感と知恵があったと思います。しかし、平成の私達は、その直感と知恵を失っています。大原則を忘れ、根っ子を見ない集団にも明日があるという、そんな美味しい話はないと思わねばなりません。
今日のテーマから少し外れますが、近々、憲法論議も始まると思います。現状を見る限り、根っ子の議論がされるとは思えません。国民による、国民のための憲法が出来る見込みなどないと言わざるを得ません。これは、自民党の視野狭窄だけが問題ではありません。左翼の皆さんの視野の狭い矮小化された主張が憲法論議を歪めている罪は大きいと思います。
民主主義国家の憲法を作ろうとしているのに、民主主義とは何か、という定義もなく、原点に戻った議論をしようという声もありません。「国とは、国民とは、民主主義とは」という定義もせずに、民主主義国の憲法が作れると考えているのですから救いはありません。このままでは、民主主義風・王政並立・封建主義国家の憲法が出来ると思いますが、国民の皆さんは、そのことに違和感を持っていません。なぜなら、現行の偽民主主義制度が民主主義だと信じていますし、自分の責任が少なければ少ないほど有難いと思っているからです。これも、助平根性による勘違いであり、視野狭窄です。
ですから、私がやっていることは無駄な抵抗なのでしょう。それでも、国家崩壊という未来予測がある以上、抵抗する人間でありたいと思っています。時間が残されていませんから、民主主義国に相応しい憲法を作れば、国家崩壊が回避できると言うことではありません。でも、抵抗は必要だと思います。ここまで来ると、「一寸の虫にも五分の魂」というプライドの問題ですから。
「国家運営とは、国民を騙すことなり」という言葉を現実のものにしないためには、私達が「国とは、国民とは、民主主義とは」という議論をして、民主主義の本来の目的である国民が主役を演じる国を実現することです。まだ、どこの国も実現していませんが、日本人なら、それが可能かもしれません。他に道はないと思います。

では、個々の事象を個々の事象として見るのではなく、国民を騙す仕事とは何かという視点から個々の事象を見てみます。これは、ほんの一例です。
1月17日に続き3月11日がやってきました。
阪神大震災から20年、東日本大震災から4年が経過しました。
テレビは、当時の様子を流しています。
何度見ても、痛ましい光景です。
多くの政治家が「復興が最優先」だと言ってきました。
しかし、東日本の復旧と復興は遅々として進んでいません。
被災地の住民は苦しい生活を強いられています。
これが、現実です。
先月、政治とカネの問題を取り上げましたが、被災地の住民を置き去りにして、利権だけが復旧しています。総理大臣を筆頭にして、多分、多くの議員が同じ類の寄付をもらっているのでしょう。しかし、政治家は、法律には違反していないと胸を張っています。
安倍総理は「復興は着実に前進しています」と自慢げに言っていましたが、本気でそう考えているのでしょうか。復興が後退しているとは思いませんが、後退していないことを自慢するのは、なんか、違うような気がします。
安倍総理は、総理就任以来、外交に力を入れ精力的に海外を訪問し、多額の税金を使っていますが、被災地を何回訪問したのでしょうか。総理も「復興が最優先」だと言っていましたが、外国への手土産に使った税金を被災地に使う発想はなかったのでしょうか。一国のリーダーが言行不一致の先頭に立っているのですから、被災地は救われません。きっと、総理には、国民生活が置き去りにされているという認識はないのでしょう。
国民目線が失われているのは、災害復興に限りませんが、主権者である国民がこれほどないがしろにされていて、ほんとに、いいのでしょうか。
大所高所からの判断だと言う方がいますが、民主主義国家では国民以外に大きくて高い存在はありません。現実は、いつも国民は最下位の存在として扱われていますが、それは封建社会での常識です。実に多くの方が、大きな勘違いをしています。残念ながら、勘違いの先頭に立っているのは、「大所高所からの判断」という騙しを唯々諾々と受け入れている国民自身だという不条理もあります。それは、国民が自分の責務を認識していないことに原因があります。国家運営者にとって都合の良い国体では、必ず、国民が貧乏籤を引くことになるのです。現に、被災地の住民は貧乏籤を引いています。
「お上は何もしてくれない」と嘆いています。
でも、国民自身がその発想から離脱しなければなりません。
国家は政治家や公務員や利権集団のために存在しているのではありません。
国民のために存在しているのです。
封建社会的な発想で、住民が救われることなどないのです。
そのためにも、「国とは、国民とは、民主主義とは」を議論し、定義をし、その定義に沿ったシステムを構築しなければなりません。先ずは、国民が目を覚ますことです。主権者は国民なのですから、すべての責任は国民にあるのです。また、国民以外に責任を取れる存在はありません。国が責任を取れないことは、過去に何度も証明されてきました。
これは、誰のためでもありません。国民の皆さん、あなた自身のためなのです。

今年は、原子力発電所の再稼働も始まると言われています。
補助金を貰っている人達と電力会社が、早く再稼働しろ、と大声を出していますが、避難区域の線引きや現実的な避難計画という面では、国民は置き去りにされています。しかし、そのことに国民が異を唱えるシステムは存在していません。国民が主権者であることを示すシステムは、儀式になってしまった選挙くらいしかありません。儀式であれば、何の役にも立ちません。マスコミは騒ぎますが、それはガス抜きにしかなりません。補助金を貰っていない地域の住民は泣き寝入りするしかないのです。
また、福島の避難区域が放射性物質中間貯蔵施設の候補にされ、地権者に対する説明会が何度となく開かれ、双葉町や大熊町が放射性物質中間貯蔵施設建設地にされたようですが、住民は政府の30年という約束を信じていません。中には、信じている人もいるようですが、約束が守られないことの方が確率は高いと思います。領土の実効支配と同じで、30年後、放射性物質が貯蔵されているという現実の方が強いものです。30年後に生きている方が何人いるのかわかりませんが「あの時は、あの時、今は、今です。放射性廃棄物は現にここにあるのです」と言われるでしょう。半永久的に、放射性物質貯蔵施設になる可能性の方が常識的な解釈だと思います。10年ではなく50年でもなく、30年という数字は実に巧妙な数字だと思います。もちろん、強制的に貯蔵施設を作らなければならないことは理解しますが、仮置き場という「騙し」はするべきではないと思います。
核廃棄物を快く引き受けてくれる地域などありません。国が強権発動するのは仕方がないと思いますが、住民が渋々でも納得するやり方が求められます。たとえば、最初に、東京に、それも永田町や霞が関に、最終処分場を作ることを決め、他の地域にも応分の負担を求めれば、中間処分場を住民が受け入れてくれる公算は高くなると思います。原発事故で家を追い出され、放射性物質中間貯蔵施設を作るから家を明け渡せと言われ、30年という空約束をされたのでは、福島の住民は踏んだり蹴ったりの状態です。30年後に家に戻れるとは思えませんし、戻ったとしても生活が出来るとは思えません。これは、騙しです。
福島原発事故は、確かに大きな災害ですが、原発事故があの程度の被害で済むという保証はありません。被災地域が、補助金を貰っている立地自治体で治まるという保証もありません。治まらなかったことは福島原発事故が証明しています。しかし、現実は補助金を貰っている自治体が補助金目当てで「なあなあ」「まあまあ」と決めています。それは、県も市も町も、補助金なしでは予算が組めないからです。補助金がなければ、自分達の高い給料が払えないからです。たとえば、福井県の公務員年収は674万円です。仮に、私が県庁職員だとしたら、迷わずに、原発再稼働に賛成します。でも・・・・・なんか・・・違うような気がしてなりません。これも、騙しだと思います。
そもそも、地震と津波の対策があれば万全なのでしょうか。
たとえば、電力会社が倒産したら、誰が原子炉や核燃料棒の面倒をみるのですか。
私には、この方が大問題にみえます。
ほんとに、電力会社が倒産することはないのですか。
財政破綻が現実になれば、電力会社は簡単に倒産します。
全国の原子力発電所は無人になります。
多分、東南海地震や首都直下型地震よりも、財政破綻の方が先にやってきます。
目先の利益が大切なことはよくわかりますが、それだけでは禍根を残します。
おバカな菅さんや福島さんのように、イデオロギーで原発反対を叫ぶのはズレていると思いますが、国民生活の危機管理という観点からは、原発の再稼働には問題がありすぎます。
再稼働の条件を地震と津波に限定することで、他の要素が無視されている現状を異常だと感じる視点が必要です。最も優先されなければならないのは、国民生活だと思いますが、その視点はありません。
国民という視点は、ここでも無視されています。
せめて、100km圏内の住民の安全を確保することが一番の目的にならなければなりません。なぜなら、住民は主権者であり、国家は主権者である住民のために存在しているからです。国には、住民の安全を最優先とする責務があります。電力会社の利益確保や地方自治体の公務員の高給を守るために国家が存在しているのではありません。
福島で現実に起きているような、30年、50年、あるいは半永久的な立ち入り禁止区域が出ることを想定し、その対策を作っておかなければなりません。事故が起きれば、新しい双葉町や大熊町が生まれるのです。その対策のためには、莫大な費用が必要になります。その費用は災害準備特別税を新設し、国民が負担し、国民が自分の問題だということを認識しなければなりません。それでも、なお、再稼働に妥当性があると国民が判断するのであれば、それは仕方がありません。
しかし、税金を蓄え、準備万端の体制を作ったとしても、財政破綻してしまえば、その対策も役に立ちません。現状の地震と津波だけの対策でも、住民の安全確保のための有効な対策が作られているとは言えませんが、電力会社の倒産という条件を加味すれば、有効な対策はないのです。
何の対策も作れないのであれば、再稼働をしてはいけないということです。
原発事故は自然災害だけで発生するのではありません。判断ミスや操作ミスという人災で原発事故が起きる可能性はありますし、財政破綻という人災でも原発事故は起きます。
原子力規制委員会は、地震と津波だけの安全性を評価し、住民の避難を含めて再稼働の可否は自治体が決めてくれと国は丸投げし、立地自治体は補助金欲しさに再稼働を決める。国民目線は失われ、助平根性のオンパレードです。この先、このツケは、どこかで払わなければなりません。これも、騙しでしかありません。
関西電力や九州電力が原子炉の廃炉を決定したというニュースがありました。原子炉を廃炉にしても、その核廃棄物をどうするのかは決まっていません。巨額の廃炉費用の負担についても決まっていません。原子力発電が安価な発電方式だと宣伝していたあの神話はどこへ消えてしまったのでしょう。当初から40年~60年で廃炉になるという概念は存在していました。それが全く計算に入っていなかったのです。先送りが始まり、もう先送りが出来ない状況が来た時に、「皆さん、仕方ありませんよね」と国民に負担を押し付けてきます。原子力神話の騙しは、国民負担で終息します。もっとも、神話の目的が、国民を騙すためのものであれば、神話は見事に目的を達することになります。
これは、原子力行政に限ったことではありません。
「いかにして国民を騙すか」が国の仕事になっていることが最大の根っ子です。
政治家だけではなく、どこの省庁の官僚の頭の中にも、そのことがあります。もう、それは習慣になっていて、罪悪感は失われ、彼等にとっては、日常なのです。彼等にとって一番大切なものは自分の利益であり、国民の利益ではありません。「国とは、国民とは、民主主義とは」という定義がされていない弊害がここにもあります。
中間貯蔵施設の件で国を信用していない住民がいることは、その一例です。自分の身に降りかかった場合には、国の本音が見えるのだと思います。自分の人生だけではなく、家族の人生も、子供や孫の人生まで左右することになるのですから、住民は真剣です。真剣になれば、国とはこういうものだったのか、国民とはこんな存在だったのかということに気付きます。騙しの構図が見えてしまうのです。
でも、敢えて厳しいことを言いますが、それも自業自得にすぎません。個人の力は小さいものです。私達は、こんなことになる前に、国の騙しを是正するシステムを作っておかねばならなかったのです。それが、民主主義です。

では、どうすれば、いいのか。
日本のエネルギー政策を考える時、最初に取り組まなければならないのは財政破綻の回避です。当面、原発が必要だとすれば、次に取り組むのは、住民の安全確保です。三番目に取り組むのは、CO2を排出しない火力発電技術の開発です。四番目に取り組むのは、メタンハイドレードの実用化です。地震や津波というファクターは、ほんの一部分の要素です。
残念ながら、これら必要なアクションが一つも起きていません。その全てのアクションを阻害している要因は、利権に執着したために罹患した視野狭窄という病気です。
私は、何が何でも原発の再稼働に反対するものではありません。再稼働の条件さえ満たせば、危険を承知で再稼働も受け入れなければならないと思いますが、条件が満たされる見込みは皆無ですから、全面的に反対するしかないのです。
利権や現状維持が最優先になっている状態で、国民のためのエネルギー政策が生まれることはありません。少し真剣に、少し客観的に考えれば、当たり前のことです。
まともなエネルギー政策を立案するだけでも、日本再生は見えてきます。今は江戸時代ではありません。もう「なあなあ」や「まあまあ」では無理な時代なのです。腹芸でなんとかなる時代ではありません。エネルギー政策だけではなく、この時代認識の欠如が、あらゆる場面でこの国を追いつめているのです。今ほど民主主義というシステムが求められている時代はなかったのではないかと思います。未だに、お代官様と越後屋で国を動かそうとしている現状は変えなければなりません。時代を変える時代です。

「お国のため」が「国民のため」になるという思い込みが多くの方にあるようですが、それは幻想にすぎません。これも、勘違いです。そのようなことが当然と思われているのは、国民が自分に責務があることを認識していないことが原因です。「国のため」と「国民のため」は両立しなくてはなりません。しかし、国民が逃げていては両立しません。
昭和の日本では、70年前、「お国のため」という標語を信じ、多くの若者が死にました。私達は、また、同じことをするのですか。
平成の私達は、「お国のため」に増税を受け入れ、社会保障の削減を受け入れ、貯金を失い、食糧や燃料の不足を受け入れて、多くの犠牲者を出すことになります。果たして、それが「国民のため」になるのでしょうか。
「国のため」と「国民のため」を両立させるためには、自分の国が借金大国になる前に、国民が「ノー」と言える識見を持ち、国の暴走を止めるシステムが必要なのです。かつて、軍部の暴走を防ぐシステムがなかったことで、多くの犠牲者を出し、その反省の上に立った制度が作られたはずでした。でも、暴走するのは軍部だけではありません。権力を持つと暴走したくなるものなのです。権力者の暴走を止められるのは、今のところ、民主主義というシステムしかありません。
ここで、国の暴走を防ぐ簡単なシステムを提案しておきます。国の借金は、最終的に、必ず、国民が負担しなくてはならないのですから、国の借金が一定額を超えた場合、その都度、国民から税金として徴収するというシステムがあれば、国民は黙っていないでしょう。その上で、一定数の国民の署名があれば、国民投票の実施が義務付けられ、国民投票で過半数の賛成があれば衆議院解散・総選挙が実施される。リコール制度は地方自治にしかありません。国民は主権者なのですから、総理大臣だけではなく、国民にも解散総選挙の権利があってもいいと思います。もちろん、選挙制度の変更も必要です。少なくとも、際限なく借金が出来る現在のシステムの欠陥に国民が異を唱えることが出来ます。ただ、このシステムを今年成立させたとしても、実運用をするまでには10年以上の時間が必要になると思われます。つまり、実運用するまでに財政は破綻するのですから、ほとんど意味ありません。そう考えると、革命によるしか方向転換は出来ないと思います。
何のために国家は存在しているのでしょう。本来、民主主義国家では主権者である国民が国家運営者なのです。しかし、全員で国家運営をしていたのでは生活費が捻出できませんから、国民は生活費を稼ぎ、政治家や公務員に国家運営の仕事を外注していると考えてください。立法も行政も司法も、国民の外注先なのです。
今までは、お願いして、やってもらっている、という意識が国民にはあったと思いますが、国民がその意識を変える必要があります。私達の税金は外注費だと思ってください。そう考えれば、仕組みそのものが大きく変わります。そうすれば、外注先の人の方が、外注元の人よりも多くの収入を得ていることが異常だということも見えてきます。
外注先に好き勝手をさせる外注元は存在しません。それなのに、今は、なぜ、外注先の方が主導権を持っているのでしょう。それは、私達が外注元であるということに気付いていないからです。外注先が大きな失敗をすれば、当然、外注元である私達がその責任を取らねばなりません。外注先には大きなお金を扱わせるのですから、充分注意が必要であることは当然ですし、何をしているのかを知る必要もあります。そして、不都合なことがあれば、外注先を指導し、その仕事を糺すシステムが必要になります。民主主義が国民主権という原則のもとにあるのであれば、主権者が主権者としての仕事ができるシステムが存在していなければなりません。その観点から見れば、システム不在の今の日本は民主主義国ではありません。その最大の原因は、国民の認識不足に、いや、国民の責任放棄にあるのでしょう。国民は、偽物の民主主義を民主主義だと言われて信じているだけです。これも、騙しです。学校の教科書には民主主義という言葉が書かれていますが、民主主義を説明する前に、「国とは、国民とは」という言葉がなければなりません。
やはり、先ず、最初にしなければならないのは「国とは、国民とは、民主主義とは」という定義です。


先日、国会の予算委員会の質疑応答を聞いていましたら、共産党の穀田議員が政治資金と政党助成金の関係について質問をしていました。私の意見とほぼ同じものでした。お断りしておかねばなりませんが、私は共産党の回し者ではありません。ただ、時々、意見が一致することがあります。これは、困ったことです。それと、共産党の地方議員が近所で演説することがありますが、なぜか、いつも、国民目線なのです。国民を奴隷として扱う共産主義を信奉している人達にしか国民目線がないのは皮肉な話です。
確かに、共産党と公明党は「赤旗」と「信者」からの収入がありますので、政党助成金がなくてもいいのでしょう。自民党も「保守新報」という新聞を作り、収入を安定させればいいと思うのですが、購読してくれる人がいないのかもしれません。いや、新聞収入があったとしても、獲れるものは何でも獲るのが自民党なのかもしれません。
それでも、敢えて、私は共産党とは相入れない立場にあると言っておきたいと思います。当然のことながら、彼等の目的は共産主義国家の樹立であり、私が希望するのは民主主義国家の樹立だからです。もちろん、民主主義が完全無欠な制度だと考えている訳ではありません。万人が幸せになれる完璧な制度など存在しません。民主主義のほうが共産主義や封建主義より、国民には優しい制度だと思っているだけです。
しかし、この国には、民主主義を樹立しようという人がいないのですから、どうすることもできません。国家崩壊の最大の要因は、私達が逃げることしか知らない国民になってしまったからだと思います。逃げ切れないことがわかった時は、手遅れなのですから、ほんと、救われません。

国民の皆さん。
あなたは、このままで、逃げ切れると思いますか。
何とかなる、と思いますか。
私達が歩いている道が、明るい明日に繋がっているという政府の示す楽観論を信じますか。
皆さんには、崩壊へ向かっている道が見えませんか。
逃げ切れなかった時、何ともならなかった時、楽観論が否定された時、崩壊への道が見えた時、あなたはどうするのですか。大人の皆さんは自業自得ですから仕方ありませんが、子供達に対する大人としての責任はどうするのですか。
双葉町や大熊町の皆さんのように、追いつめられてから気付いても、手遅れです。
私達は、その前に声を出さなくてはなりません。
多くの国民が自分の勘違いに気付き、多くの国民が声を出せば、革命が起きます。
別に、武力革命である必要はありません。
国民の強い声があれば、その声が革命になるのです。
「なんとかなる」とか「人生、浮き沈み」なんて能天気なことを言っている場合ではありません。皆さんと皆さんの家族の生活がかかっているのです。
何もしないだけでも、自業自得になります。皆さんは、子供や孫に、どんな言い訳をするつもりですか。それとも「自分さえよければ」いいのですか。

こんな石田のブログを読んでくださる数少ない皆さん。
読んでいて、気持ちのいいものではありませんよね。
皆さんの辛抱強さに敬意を表します。
でも、誰かが、やらねばならないと思っています。
たとえ、蟷螂之斧であったとしても、未来の子供達のために、続けるしかありません。
ただ、役に立たなくても、勘弁してください。
残念ながら、これで精一杯です。



世界がキナ臭くなってきました。
中東の混乱は、これからも、まだ、深くなる可能性があります。
現在では、イスラエルとパレスチナ、シリアの内戦、イスラム国、チェニジアやリビアでのテロ、アフガニスタン、パキスタン等々で紛争が続いていますが、イエメンの内戦にサウジアラビアを筆頭に10か国のアラブ連盟が結成され、空爆が始まりました。
シリアの内戦では犠牲者が20万人を超え、まだ収束の兆しは見えていません。イスラエルではネタニエフ政権が継続することになり、パレスチナとの和平交渉は遠のきましたし、一番心配されているのがイスラエルによるイラン攻撃です。時間稼ぎに成功した北朝鮮は、核兵器を持つことに成功しました。北朝鮮の実績がありますので、イランも時間稼ぎをしています。でも、イスラエルはイランが核ミサイルを持つことを容認するつもりはないでしょう。それは、イスラエルの国土が小さいために、一発の核ミサイルを撃込まれただけで国家機能が停止してしまうからです。
シリア内戦の政府側、イスラム国、イエメンのフーシ派の後ろにはイランの姿が見え隠れしています。イラン核協議は頓挫する可能性があります。今や、シナイ半島は全域が紛争地帯となり、中東地域は一寸先が闇の状態です。
一方、日本では、集団的自衛権に関する安全保障法案が提出される時期が近づいています。与党が過半数を制していますので、可決成立します。憲法改正までは、まだ、時間がかかりますが、軍事同盟は日米安保しか存在しない訳ではありません。仮に、ベトナムやフィリピンやインドネシアやマレーシアと軍事同盟が結ばれれば、集団的自衛権の範囲内で軍事行動が可能になります。ベトナムやフィリピンに、海上保安庁の中古の警備艇貸与という話もありました。フィリピンからは、中古のP3Cを貸与して欲しいという要望もありました。合同軍事演習という話もあり、将来的には日本艦艇が南シナ海の哨戒行動をするという話もあります。日本人救出という大義名分があれば、集団的自衛権の行使は可能です。アメリカ海軍は、これらの構想に大賛成です。
そんな時、「いずも」が就役しました。空母か護衛艦かという論争も起きています。全通甲板の「いずも」は、見た目には小型の空母に見えます。搭載する航空機はヘリとオスプレイだと言われていますが、F35Bなら搭載可能だと言う人もいます。
随分前に、護衛艦の後部甲板にヘリポートを作り、話題になったことがありますが、その延長線上に全通甲板の「いずも」があると思います。この歴史の延長線上には、多目的艦という名目で更に大型の空母らしきものが出来る可能性もあり、国産の無人戦闘機が誕生する日がくるかもしれません。もっとも、空母一隻では、あまり役には立ちませんが、日本であれば空母戦闘群を作るくらいは簡単にできてしまいます。空母を作らないとしても、日本の空中給油技術は優れているという話ですから、国内から飛ばした戦闘機が長距離の作戦に従事することは可能です。
安倍政権以降の政権が、どこまでやるのかはわかりませんが、世界は少しずつ戦争に向かっているのかもしれません。
これは、世界の保安官を自認していたアメリカの凋落が大きな要因ですが、オバマ政権だけの責任ではないでしょう。共和党政権になっても、もう、アメリカには保安官は勤まりません。それは、財政赤字の増大による軍事費の削減があるからです。欧州でさえ、アメリカに見切りをつけようとしています。
アメリカの心配事は、アメリカ国内でのテロと中国・ロシア・北朝鮮による大陸間弾道弾のアメリカ本土攻撃にあるようです。世界秩序を守ることよりも、自国の安全を守ることが優先することは当然のことです。6年前に、このブログを書き始めた時、世界は1:1の戦いから1:nの戦いになり、最終的にはn:nの戦いになると書きました。まだ、過渡期ですが、n:nの時代の匂いがしてきました。
そんな時代に、自滅してしまう日本が幸せ者なのか、不幸せ者なのか、判定は難しいのかもしれませんが、厳しい現実と直面することだけは確かなことです。
世界を俯瞰し、将来を見通さねば、国の存立も危ういものになります。
その大前提になるのが、国家運営の基盤である財政です。
国家財政が破綻すれば、あらゆることが水泡に帰します。
ちまちまと国民を騙すことに専心していたら、取り返しのつかない事態になります。
でも、国内には危機感がありませんので、きっと、そうなるのでしょう。
大変、残念なことです。

テレビコメンテーターのK氏が、安倍政権を批判し、番組を降板させられたという事件で、ネットは盛り上がっていますが、そこには、空気の怖さがあります。
私はK氏を擁護するつもりはありませんが、一般市民がK氏バッシングに参加している様子には、怖さを感じます。左翼系の人がK氏を擁護するので、ますます、バッシングに拍車がかかります。
K氏は政権から「圧力を受けた」と言い、一般市民は「証拠を出せ」と言います。K氏が状況証拠しか示すことが出来ないと知ると「証拠なんて、ないじゃないか」と批判します。
皆さん、違いますよ。空気は、圧力なんです。いや、もっと言えば、枝葉末端の部分で一般市民が騒いでくれることが目的なのです。
圧力という空気を察知した企業も団体も個人も、自己規制する方向へ走ります。それは、自分の収入を危険に晒さないためです。要は、カネです。でも、メディアがそれをやっちゃいけません。それよりも、一般市民が、空気に踊らされてはいけません。私達は、80年前に戻る危険があります。戦争に勝ったという提灯行列をする市民になってはいけません。なぜかわかりますか。犠牲になるのは、市民だからです。
これも、根っ子から外れた部分での騒ぎです。こんなことをしていたら、犠牲になるのは国民の皆さんなのです。
国家運営者も左翼の皆さんもメディアも一般国民も、皆で視野狭窄病に罹患した国が、無事に明日を迎えられるのでしょうか。
私には、難しいように思えます。
何か方法はないのでしょうか。
いつも、無茶な提案ばかりで申し訳ありません。
今、日本には「財政破綻を回避するために」という大義名分があります。日本が財政破綻を回避することは、世界の利益にもなります。日本がアジアの保安官になる必要もありませんし、日本にはその力がありません。財政破綻の回避に専念することで、n:nの戦いという世界潮流から取り残されることになりますが、100年200年という長期的な見地からは「吉」という結果が出るかもしれません。きっと、誰も、そんなことは考えないのでしょうが、ピンチはチャンスでもあるのです。
防衛費をゼロにせよ、と言っているのではありません。本物の防衛論を議論する必要があるのです。もちろん、この国には資金がありませんから、出来るだけ少ない費用で国を防衛しなければなりません。ただ、他人任せでは国は守れません。
「あなたは、国のために戦いますか」というアンケートがあり、日本は「はい」と答えた人が最低だったそうです。国民が自分の国を守るという原則を国民が知ることから始めなくてはなりません。それが、防衛論の出発点です。


2015-04-02



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