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キプロス追記 [評論]



前回、キプロスの銀行封鎖の記事を書きました。
その後のフィナンシャル・タイムズ紙の記事に、日本の新聞では目にしない指摘がありましたので、追加して紹介しておきたいと思います。これは、別に新しい見解ではありません。当然のことが書かれているだけです。


[前略]
 預金に課税するなど泥棒と同じだという声が多いが、その見方はナンセンスだ。銀行は金庫とは違う。銀行とは、要求があれば預金者のお金をいつでも額面通りに返すと約束している、自己資本の薄い資産運用会社だ。そして、支払い能力のある国家の支援がない場合、この約束は常に守られるとは限らない。
 銀行にお金を貸す(預ける)なら、この点は必ず理解しておかねばならない。銀行業はリスクを取る金融業の一種であり、少なくとも一部の貸し手(預金者)は損失を被る。そのような損失なしに銀行業が営まれることは考えられない。
 そうでなければ、銀行の債務は政府の債務になる。納税者のお金でこのようなギャンブルをすることなど、民間企業には許されない。誰でも分かることだ。
 従って、預金者が損失を被ることがあるという原則に問題があるのではない。どの預金者がどの程度の損失を被るべきなのかが問題なのだ。
[中略]
危険な金融システムを作り出したのは政府であり、政府は納税者の代理人であるのだから、そのコストの一部は納税者が背負わねばならない、というものだ。
[中略]
 恐ろしいのは小国キプロスがトラブルに陥ったことではない。本当に恐ろしいのは、このトラブルがもっと大きな危険の源泉になっていることだ。銀行業はどの国や地域でも危険な存在だが、これはまだユーロ圏の存続を脅かし続けている。
[後略]



このような発想は、日本では忘れ去られています。特に一般庶民は、盲目と言っても過言ではないくらいに銀行を信用しています。

「銀行業はどの国や地域でも危険な存在だ」と書かれていますが、経済や金融のことを知っている人の中に、この見解を否定出来る人がいるとは思えません。ただ、忘れているだけです。また、庶民は「お上」が醸造した水の中に住んでいますから、疑うことすらしません。

「政府は納税者の代理人であるのだから、そのコストの一部は納税者が背負わねばならない」という文章があります。この発想も日本にはありません。国民は知らされていませんが、国が借金をしているということは、国民が借金をしている事と同義語ですから、自動的に国民の預貯金が担保になっているのです。
また、政治家が選挙に勝つということは、自由自在に金が使えるということです。国民は、そんな積りで投票している訳ではありませんが、実際には、白紙委任状を投票所で記入しているようなものです。それを制限する仕組みはありません。政治家と国民の信頼関係だと言う人もいます。残念ながら、政治家との信頼関係など、屁の突っ張りにもなりません。そういう仕組みを作ろうとしなかった私達国民にも責任があります。国民にとっては、棚ぼたで手にした民主主義ですから、民主主義が国民のためのものだという認識もありませんし、勝ち取った民主主義ではありませんから、骨抜きになっても惜しいことはありません。他人事として、今日までやってきたのです。でも、形の上では、政治家は国民の代理人なのです。

「銀行とは、要求があれば預金者のお金をいつでも額面通りに返すと約束している、自己資本の薄い資産運用会社だ」という文章もあります。約束しているだけで、その約束が守られるという保証はどこにもないのです。約束というものは、多くの条件が成立している時にのみ有効なものであり、種々の条件が成立していない場合でも、約束が守られると考えることは、もう自己責任の範疇です。
それを認識している人は、ごく稀にしかいません。
銀行は、日常的に入出金される預金をデータとして解析し、それを元にしてシステムを構築しているのです。異常値に対応できないのは当たり前なのです。元々、預金者の要求に無条件で対応できるようなシステムにはなっていません。


銀行の財務諸表を見れば一目瞭然ですが、そのことに注目する人はいません。
数パーセントの自己資本で、全ての預金者の要求に答えることが出来ないことくらい、誰の目にも明らかな筈です。
このブログでも、銀行が支払い不能になることを何回か書きましたが、多分、そんなことは気にもしていないと思います。現実に起きることだとは想像すらしないと思います。預金通帳に数字が印字されていれば、自分の預金は守られていると思い込んでいるのでしょう。それは、ただの数字です。1000回のうち999回、何の問題もなくても、最後の1回で無一文になるのです。
銀行封鎖などが起きますと「まさか!!」と思う人が大半だろうと思います。それは、違います。「やっぱり」と受け取らなくてはならないのです。
国外のメディアは、ごく当たり前のようにこのような記事を書きます。
日本のメディアにとっては、これは、危険思想の範疇に入るのでしょう。

知らない、ということは怖いことなのです。
このことも、音は聴こえていませんが、崩壊の足音です。
最近、大変残念なことでもあるのですが、石田の日本崩壊予測を補強する材料は簡単に見つけることが出来るようになりました。ただ、どれも、一本の線で結ばれてはいません。種々の出来事や評論に、日本崩壊という一本の線を通せば、一見してバラバラに見えることが一つに繋がり、大きな流れになっているのが見える筈です。その事に気付くまでには、まだ時間は必要なのでしょう。でも、いつかは、誰かが気付くものと思います。
問題は崩壊後の社会の予測です。
この予測に到達するまでには、更に時間が必要なのだと思います。13年では時間が足りないのかもしれません。
予測は、何のために必要なのか。それは、最悪の事態を回避する時間を手にするためなのではないでしょうか。今でも、もう、時間切れになっているのに、崩壊直前になって崩壊後の予測ができても、何も出来ることはありません。


2013-03-23



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