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ナウシカ [日記]



私は、前回の日記の最後に巨神兵を登場させました。ご存知だと思いますが、「風の谷のナウシカ」の一場面を想定して書きました。ナウシカが世に出て、もう長い年月が過ぎました。たかが、アニメだと言う人もいるでしょう。でも、私は今でも、ナウシカを想うと心が震えます。それは、ナウシカが愛を表しているからです。
ナウシカは、風の谷の民に対して、底知れぬ愛を持っています。それは、王家の姫という誇りに支えられた、広くて大きな愛です。ナウシカの愛は、オームの怒りさえも鎮める大きな愛です。その愛の前では、人間の強欲がみすぼらしい虚栄にしか見えません。
物語は、フィクションですが、夢としては持ち続けたい愛です。現実としては、あり得ないことではありますが、為政者はナウシカの万分の一でもいいので、誇りを、真の誇りを持たねばならないと思います。為政者は民のために、民は誰かのために生きる部分があってもいいのではないでしょうか。100%である必要はありません。心の奥のどこかに、このような愛が、人間の誇りが残されている必要があるのではないでしょうか。損得だけでは悲しいとは思いませんか。
あちらを見ても「自分」こちらを見ても「自分」。「自分さえよければ」はもう沢山です。
特に、為政者の「自分さえ」は見苦しく、おぞましい、とさえ思えます。
日本人が世界の一員として生きていくには難しいことが多くありますが、日本民族は誇りと共に生きていける数少ない民族だと思うのです。どうしても、世界と同じにならなくてはいけないのでしょうか。
やはり、哲学が、思想が、私達には必要です。たとえ、千代田区を巨神兵の力で消滅させたとしても、新たな魑魅魍魎が取って代わるだけでは意味がありません。
愛や誇りだけでは生きていけないのは確かですが、そのことが、愛や誇りを捨て去る理由にはなりません。愛や誇りの塊である必要はありませんが、少しだけでも、ほんの少しだけでも残せないものでしょうか。そうすれば、私達の心は、ナウシカのようにメーベに乗って空高く自由に飛ぶことができるかもしれません。
これは、子供のような夢にすぎないのでしょうか。
大人になると、打算で生きるだけが、本当に正しい事なのでしょうか。
立ち止まり、一歩引いてみませんか。

東北の被災者の中には、愛も誇りも残っています。
それなのに、為政者と為政者を取り巻く利権集団には、それがありません。あるのは、大きすぎるほどの自己愛だけです。砂の粒程の誇りも残っていません。
言葉だけが躍る日本再生。そこからは、偽物の再生しか生まれません。
その理由は簡単です。民の誇りを遥かに凌駕する誇りを持たなければならない為政者に誇りが残っていないからです。
私は天皇制については懐疑的であり、崇拝論者にはなれません。
でも、天皇にも皇后にも民に対する愛と日本人の誇りは感じられます。彼等は為政者ではないので、民に近い存在であり、愛も誇りも失わなかったのかもしれません。
天皇制について書くことは、あまり乗り気ではありません。でも、日本民族の誇りに言及する時に、天皇を無視することが出来ないのも確かです。それは、天皇家が日本の歴史を伝えてきたからです。
長い長い歴史の中で、天皇が民を救った時も、民を苦しめた時もあったでしょうが、現代史の中で軍部に利用された事だけは認める訳にはいかないと思っています。「天皇陛下、万歳」と叫んで死んでいった兵士がいることを、天皇は受け入れてはいけなかったのです。
「かあさん」と叫んで弾幕の中に突っ込んでいった神風の飛行士は、自分の家族を、自分の国を守りたい、その一心で飛行機のスロットルを押したのです。その気持ちは誇り高いと思います。歴史として見れば、神風飛行士も軍部に利用された犠牲者ですが、その時に、その立場にあれば、私も飛行機に乗っていたかもしれません。民は天皇のために死ぬのではありません、家族のために死を受け入れるのです。
昭和天皇の玉音放送も、マッカーサーとの対決も、私は昭和天皇の贖罪意識があったものと思っています。それは、それで立派ですが、余りにも多くの民を、天皇の名前で死地へと送ったことは帳消しにはなりません。あの玉音放送のもっと前に、軍部を諌め、自らの命を断たねばならなかったのです。天皇であれば、天皇の命であれば、日本帝国陸軍は戦争を止めざるをえなかったでしょう。
天皇は権力に利用されてはいけません。利用する奴は、象徴としての天皇でも利用します。
ですから、私は天皇制に懐疑的であります。
それでも、昭和天皇の民に対する愛と民族に対する誇りは否定できません。
現在の平成天皇も皇后も高齢ですから、ご自分の健康問題を抱えながらも、被災地を訪れ、膝を折って民に話しかける姿には愛があります。総理大臣やどこかの社長の態度とは雲泥の差があります。それは、外見ではありません。民への愛があるかどうかという心根の問題なのです。
政治家や官僚は、天皇とは立場が違うと言うでしょう。その通りですが、立場が違うことが誇りを捨てる理由にはならないのです。
為政者は民のために、民は誰かのために生きる。それが愛であり、その愛を支えるのが誇りではないでしょうか。
愛と誇り。
青春コミックじゃあるまいし、と思っている大人の方が多いでしょう。
でも、本当に、青臭い、と切り捨てていいのでしょうか。

しかし、です。
そうは、言っても。
現実的には、愛と誇りは絵空事に過ぎません。
いくら非常識な私でも、それはわかります。
為政者が、愛や誇りを再び手にすることができるのなら、そんな力があったのなら、こんな事態にはなっていなかったのです。
やはり、我々は滅びるしかないのです。それが一番自然な成り行きなのです。
私は、藁でも掴みたい、と思っています。
愛や誇りまで持ち出してみましたが、無理のようです。
今日も、崩壊の阻止はできないと、認めなければなりません。

余談です。
経産省の電力利権がどの位のものか。誰も知りません。そこで、少し無茶な推測をしてみました。電力10社の売り上げは約16兆円です。日本の電気料金は世界の2倍だとすると、16兆円の半分に当たる8兆円が闇に消えていると考えられます。もちろん、闇の向こうには経産省がいます。年間8兆円の利権が電力利権だと推測できます。経産省の利権は電力産業だけではないでしょう。10兆円以上の利権があると推測できます。
中央省庁は13です。13省庁に全て経産省と同じ利権があるとは思えませんが、他の省庁に合計で40兆円の利権があるものと仮定すると、官僚の利権は50兆円と推測できます。
50兆円という金額は日本の税収と同額です。財源不足で四苦八苦していますが、年金財源の流用などせずに、官僚利権を使えば4兆円の第一次補正も、10兆円とも20兆円とも言われている第二次補正も第三次補正も可能です。原発事故の賠償も、東北の復旧・復興も出来ますし、消費税の増税も必要ありません。勿論、財政破綻の危険も回避することも可能です。これは、全て裏金です。表に出ている歳出にも多大な利権が含まれています。電気料金や税金を上げるのは、この官僚利権を温存するためのものに過ぎません。
本当に、日本人は太っ腹です。外国であれば、暴動になっても不思議ではありません。

3.11同時災害の悲惨な現実を目の前にしている今、為政者たちは何をしているでしょう。
国民は置き去りにされ、政治家の言葉だけが宙に浮いています。
官僚は増税のチャンスを逃がしてなるものか、と奔走しています。
これだけの大災害も、政局や増税に利用されているだけです。
もうすぐ、3.11から2カ月になります。被災者の皆さんには、希望が見えているのでしょうか。いいえ、という返事が返ってくることは容易に想像できます。かけがえのない家族を失い、家や仕事という生活の全てを失い、避難所の生活に苦痛を感じている被災者の気持ちを、ほんの少しだけでも希望に向ける将来展望は提示されたのでしょうか。被災住民への対応は遅々として進まないのに、東京電力救済スキームや増税案は矢継ぎ早に出されています。これは、おかしいでしょう。順序が違うのは、なぜでしょう。為政者たちの頭にあるのは自分達の利権の事だけで、被災住民のことは二の次三の次だからです。流石に辛抱強い東北人も怒っています。しかし、このことを、私達は当然の帰結として捉えなければなりません。政権の不手際の問題ではないのです。これは、利権集団の強欲以外の何ものでもありません。財務大臣は東京電力の決算に合わせて施策を決めると発言しています。被災住民を放ったらかしておいて、なぜ、一私企業の存続が優先されるのか。それは、官僚が利権の死守を最大の目標にしているからなのです。ひど過ぎます。
原発の損害賠償に関する一次指針が発表されましたが、その指針作成に東京電力が注文をつけていたというニュースも発表されました。東京電力は加害者ですから、作成されている指針の内容を知る立場にはありません。では、どんな指針が作られようとしていたのかを知っていたのは誰でしょう。そうです、官僚です。官僚は東京電力に要望書を出すように指導したのです。一蓮托生ですから、東京電力の弱体化は官僚の弱体化に直結しています。東京電力を守ることが自分達を守ることになります。住民よりも子供達よりも、誰よりも自分達の利権が最優先なのです。この人達に愛や誇りの話が通じるとは、とても考えられません。もちろん、彼らにも愛はあります。でも、それは強すぎるほどの自己愛でしかありません。自分を愛することからしか他者への愛は生まれませんが、そこに欲が絡むと自己愛だけが増殖してしまうのです。
表面的な事象を見れば、誰もが東京電力が悪いと思います。でも、それは全くの勘違いです。正しくは、東京電力も悪いと思う事が必要なのです。この「が」と「も」の違いは大きな違いなのです。
東北の多くの方々に、全国の多くの国民に、そして天皇にも、愛が、そして誇りがあることは確かです。本来の日本人は誇り高き民族なんです。
しかし、為政者には、強欲以外のものは見ることが出来ません。
日頃、天皇を敬愛しているふりをしている、為政者グループのお年寄りの皆さん。皆さんは偽物ですか。今こそ政権に影響力を使わなければなりません。天皇のあの姿を見て、何も感じないのは変でしょう。あなた方が言っていた天皇制に対する賛美は偽物ですか。あなた方の天皇への敬愛は、ただの打算でしかないのですか。もし、打算でないのであれば、天皇と同じ誇りを持たねばなりません。民に対する愛が持てないなら、誇りが持てないのなら軽々に天皇のことに言及すべきでありません。それこそ、失礼です。あなた方は、天皇を利用した日本帝国陸軍となんら変わりがないことになります。
為政者の「為」という文字に人を足し、「政」り事を外すと、偽者という字になります。こんなゴロ合わせ楽しくありませんが、余りにも偽物が多すぎます。
政治家が政治をせず、官僚が国のために働かない。彼らは、為政者ではなく偽者です。
これは、詐欺であり、刑法の不備です。なぜ、この罪を罰する法律が存在しないのでしょう。「お上」は何をやっても罪にはならない。これが、法治国家なのですか。「下々」の場合は2人殺せば死刑になりますよ。避難所で亡くなった方が何人いると思うのです。あなた方は、充分に死刑の要件を満たしています。あなた方は国を滅ぼそうとしています。1億2千万人を殺しても罪に問われない法律とは一体何なんですか。殺意はなかった、などと詭弁を使わないでくださいよ。あなた方の行為は充分殺意に相当します。
これだけの大災害でも強欲の方が強いのです。
このことは、日本が崩壊し、国全体が壊れた時でも、強欲だけは生き延びると考えなくてはなりません。
日本人の絶滅が本物だと認識出来た時に、それは、種の絶滅の寸前ですが、初めて自分達がやらねばならなかったことに気付きます。
そこから、何かできるのでしょうか。
もう、そこには、後戻りの道も、再生の道も、ありません。
日本発の放射性物質が、地球を滅ぼす元凶になることでさえ考えられます。
その出発点が、為政者共の強欲でしかなかったという貧しさは、悲しい事です。
しかし、それを阻止する手段を私達は持っていません。いや、日本国民には、持つ意志がありません。
その最大の要因は、国民に認識がないからだと言ってきました。
もう一歩踏み込んで、失礼を承知で言えば、日本人は逃げているのです。たとえ、日本崩壊が理論で証明できなくても、日本人は直感で危険を知っています。しかし、腫れものに触りたくないので、知らないふりをして逃げているだけなのです。
今度ばかりは、皆で逃げても駄目です。
駄目な時は、駄目なんです。
今度ばかりは、先送りが通用しません。
たかが強欲、と思っている方がほとんどですが、それは大きな誤解です。
大きな流れになれば、人間の力では何もできなくなるのです。
日毎に、その流れは大きくなっています。
これが、歴史そのものなのです。

いつの日か、また、禍は束になってやってきます。
もう、間に合わないと思います。
それでも。
立ち上がれ、日本民族よ。
最後の希望は国民にしかありません。
このまま絶滅させてしまうには惜しい民族です。100年後か200年後、人類が絶滅の危機に遭遇した時、人類を救えるのは日本人かもしれないのです。


2011-5-7



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