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令和時代の皆さん [評論]



少数の経済学者の方が、日本経済の衰退に警鐘を鳴らしています。いや、逆から見ると、ほとんどの学者の皆さんが「見て見ぬふり」をしているということです。突出しないこと。権力に逆らわないこと。大勢に迎合すること。何事も安全第一。これが、学者の皆さんの共通の認識のように見えます。その点では、多くの方が、見事に一致協力しています。しかし、学者の皆さんも生活者なのですから、「学問に向き合え」なんて無理は言えません。
なぜ、こんなことになってしまうのでしょう。
それは、この国の運営を担っている、権力の頂点に立っている、自民党が、自分の目的しか見ていないからです。自分の身分を守ることに手一杯です。
自民党の目的は、以前も書きましたが、「自民党政権を維持する」ことです。それ以外のことは何も見ようとしません。自民党にとっては、国も国民も眼中にありません。ただ、ひたすら、政権を維持し、自分を守ることに邁進しています。
それでも、最悪なのは、自民党の国家運営ではありません。
人間は、「自分さえよければ」をやる生き物です。自民党だけではなく、これは、誰もがやることです。ですから、自民党を責めても、何も解決しない、という点で、原因の1つではありますが、自民党を批判しても何も得るものがありません。
経済衰退で一番被害を受けるのは国民なのに、その国民が「俺には関係ねぇ」と言っています。私には、このことのほうが問題だと思います。
もちろん、国民だって、「自分さえよければ」をやる生き物なのです。
つまり、皆が、等しく、悪いのです。
ただ、両者が、全く等しいというわけではありません。
ここに成績不振の外注比率の高い企業があったとします。発注元の企業は、外注先の仕事に関心がなく、外注先の製品には不良品が多く、以前からのお付き合いという理由で同じ会社に外注しているのですから、企業業績は落ちる一方です。この場合、発注元の企業と外注先の企業と、どちらに責任があるのでしょう。両社とも悪いのですが、発注権を持っている発注元の企業のほうが悪いのではないでしょうか。別の外注先を見つければ、業績が回復する可能性があります。その努力をしない発注元企業のほうが、責任は重いと思います。
大昔、トヨタ自動車の研修会に参加したことがあります。トヨタは、アッセンブリー企業ですから、外注先管理はとても重視していて、外注先の社員を集めて、缶詰にして、数日、研修会という名目の教育を行っていました。その時、トヨタの社員が言っていました。「どんな商品でも、探せば、必ず、見つかる。見つからないのは努力をしていない、ということです」と。「見つからなければ、新しく、会社を立ち上げる人に協力する」とも言っていました。彼等は本気でした。だから、世界のトヨタになったのです。
国力衰退の責任は、皆にありますが、投票権という大きな権利を持っている、主権者の責任のほうが重いと思います。
そうは言っても。皆さん、人間ですから、「自分さえよければ」をやめることは無理ですから、どうすることもできないのです。
だとすると、「自分さえよければ」ができないシステムを作るしかないと思います。そのためにも、責務の明確化は必要だと思います。責務が明確になったからと言って、「自分さえよければ」がゼロになることはありませんが、減らすことはできると思います。
また、誰だって、自分以外の誰かに責任転嫁したいです。
いや、責任を追及すれば、自分にお鉢が回ってくることだってありますので、できれば、触れたくありません。
こういう時には、「なあ、なあ、まあ、まあ」は最高の道具になります。
「確かに、俺にも責任はあるかもしれない。でも、それは、皆だって、同じだろ。目鯨を立てるのはやめようよ。なっ。赤信号だって皆で渡れば大丈夫さ」
これが、ずるずると、衰退している原因です。
つまり、この国の衰退の原因は、人間が持っている自浄能力を邪魔している、この「なあ、なあ、まあ、まあ」文化なのです。
何度も、諄々と書いて済みません。
でも、このままでいいとは思えません。
後進国の仲間入りも時間の問題だと言われています。
後進国と言われる国々を見てください。
貧しい生活をしているのは誰ですか。
国民です。
権力者は豊かな生活を、国によっては、贅沢な暮らしをしています。
と言うことは、国が衰退すれば、国民が貧乏籤を引くということです。
自分を守らなければならないのは、国民の皆さんなのです。
多分、そのことは、皆さんも、何となく、漠然と、感じていると思います。
でも、どうすればいいのか、それがわかりません。
そこが問題なんです。
学問を研究している学者の方が、その答を見つけるのが筋なのでしょうが、残念ながら、明治から令和まで、答を見つけている学者が一人もいません。いるのかもしれませんが、私は知りません。いや、私だけではなく、ほとんどの人が知らないと思います。
これは、学術会議が偏向していることに原因があるのではないと思います。単に、学者の皆さんが、自分の立場を守ることに専念しているからだと思います。学者だけではなく、多くの方が「守り」に入っていますので、これも仕方ありません。
答は、待っていても出て来ないと思います。
ほぼ100年、いや、200年、答は出て来ませんでしたので、もう、これ以上待っていても、無理だと思います。
でも、衰退は、どんどん、進んでいます。
皆さんが、貧乏籤を引く日は迫っています。
皆さんも、そのことは、薄々と、わかっているはずです。

ほんとに、答はないのでしょうか。
「言葉の定義」という提案では答えにならないのでしょうか。
どこの馬の骨かもわからない石田の提案など信用できないという気持ちは、よくわかります。私も、この提案で、この国が絶対に立ち直れる、と保証はできません。でも、可能性はあると思います。
誰か、他に、立ち直る可能性がある提案をしている方はいますか。
生産性ですか、構造改革ですか、新しい資本主義ですか。
全く役に立たないとは言いませんが、ここまで状況が悪くなると、死期を、ほんの少し「先延ばし」する効果しか期待できないと思います。
もちろん、「言葉の定義」で成功するかどうかは、やってみなければ、わかりません。でも、立ち直る可能性はあると思います。
「言葉の定義」をする目的は、国と国民の目的と責務を明確にするためです。
「国って、何」
「国民って、何に」
「民主主義って、何」
それを深掘りして答えを出せば、そこから、責務が見えてきます。
責務が明確になれば、自然と、目的も決まると思います。
私は、国の目的も、国民の目的も、「子供達の未来を守る」ことだと思っていますが、「国民生活を守る」ことでも構いません。少なくとも、「自民党を守る」ことではありません。
国の責務と国民の責務が明確になれば、個々の立場の責務も明確になります。
総理大臣には総理大臣の、政治家には政治家の、官僚には官僚の、企業経営者には企業経営者の責務があります。もちろん、国民にも国民の責務があります。
ここで、私が想像している国民の責務について書いてみたいと思います。これは、私の私見ですから、答ではありません。
国民生活は、去年より今年、今年よりも来年、少しずつであっても、豊かになることが国民生活を守るという意味だと思います。
では、国民生活を豊かにするために必要なものは何でしょう。
富だと思います。
新しい富を生み出すことが、国民生活を守ることになります。
では、誰が、その富を生み出すのでしょう。
総理大臣ですか、政治家ですか、官僚ですか、企業経営者ですか。
彼等には、富を生み出せません。
富を生み出せるのは、国民です。
総理大臣や政治家や官僚や企業経営者は、国民をサポートするのが仕事です。
しかし、従来の「お上と下々」というシステムでは、この主客が転倒しています。政府は国民の外注先だと何度も書いていますが、今は、政府のほうが偉いと思っています。政府だけが、そう思っているのではありません。国民も、そう思っています。
国民生活を守るためには、国民が富を生み出すしか方法がないのです。
しかし、国民は、自分の責務を知りませんから、「俺には関係ねぇ」と思っています。
そんな国が衰退するのは当たり前です。
もしも、「国民生活を守る」ことが、この国の目的であれば、今のシステムでは達成することは不可能です。自民党の目的は「自民党政権の維持」です。これでは、国民生活は守れません。ましてや、今の総理大臣は、自分が1日でも長く総理大臣をやることが目的になっています。自民党と岸田総理には、国民生活という影も形もありません。それでも、皆さんは自民党に投票します。これでは、「〇〇の見本」に見えてしまいます。
「じゃあ、お前は、どの党に投票しろ、と言うのだ」
もちろん、既存政党の中に、国民生活を託す政党はありません。
ですから、言葉の定義をして、「責務を果たしてくれる政党に投票します」と言えばいいのです。新しい政党は、自然にできます。
高度経済成長の時代、社長も部長も課長も一般社員も、同じ方向を向いていました。生産性を上げよう、歩留まりを上げよう、無駄を省こう、1円でも安いものを作ろう、もっといい製品を作ろう、と必死でした。それは、あの時代には暗黙の「目的」があったからです。廃墟から立ち上がった私達日本人の多くが、「世界に追いつき、世界を追い越そう」と願っていました。敗戦のリベンジを経済で達成しようとしたのです。その目的があったから一枚岩になれたのです。
今の日本に目的はありません。
「俺には関係ねぇ」と言っても構わないのです。
どうしても、目的は必要です。
でも、今あるのは、中身のないスローガンばかりです。しかも、コロコロ変わります。
目的は、中身があって、初めて、目的になるのです。
その中身が、責務です。
それぞれの立場で、そこで必要とされる責務を各人が果たして、初めて、目的が目的になり、国民生活が守れるのです。
私が解説するまでもなく、こんなこと当たり前のことです。

では、定義と責務と目的があれば、それでいいのか、と言うと、そうではありません。
国とは、誰か特定の人を指しているのではありません。国とは、システムなのです。
目的を達成するためのシステムが、必要、かつ、不可欠です。
なぜなら、目的を達成するために動くのは、人間だからです。
人間は、必ず、「欲」に負けます。特に、権限を持った人間は、「欲」に弱いです。必ず、「自分さえよければ」をやる人が出て来ます。ですから、それを修正するシステムを構築しておくことは必須だと思います。
私は、まだ、そのシステムの中身について、考えたことがありません。でも、必要不可欠であることだけは理解できます。
やらねばならないことは、山積みです。
困難の連続だと思います。
でも、歴史を変えるということは、そういうことだと思います。

言葉の定義は、最初の一歩に過ぎませんが、確かに、言葉の定義をすると、国民にも痛みはありますが、それでも、餓死者が普通に出るような国になるよりは、ましだと思います。
この仕事は、令和の時代の皆さんにしかできません。
多分、令和の次の元号の時代の人達は、食糧を調達することに日々を奪われ、そんな力は残っていないと思います。


2023-12-01



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