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大きな壁があります [評論]



大きな壁とは、何でしょう。
このブログの過去の文を読んでいただいた方は知っているかもしれませんが、壁とは、「歴史」と「伝統」と「文化」です。この「歴史、伝統、文化」には、良き面と悪しき面があります。その議論を始めると、時が、いくらあっても足りません。乱暴ですが、今は否定するしかないと思います。それは、「歴史、伝統、文化」よりも大きな課題があるからです。先ず、国家崩壊を防がねばなりません。国が壊れてしまえば、「歴史」も「伝統」も「文化」も意味をなくします。世界最貧国になってしまって、「歴史、伝統、文化」を大事にしていても、腹は膨れません。

その例として、今日は地方発の小さなニュースについて書きます。
このブログでは、これまで、国会議員の皆さんのことを「お偉い国会議員の先生方」という言い方をしてきました。私は、「先生」を敬称として使ったのではなく、蔑称として使っていますと断って、書いてきました。「先生」という呼称を蔑称として使っているのは、変人の私だけでしょう。確かに、「些細なことに、目鯨立てなさんな」と言われれば、「ごめんなさい」と言うしかないのかもしれませんが、どうして、「〇〇さん」「〇〇君」ではいけないのか、そこがわかりません。これも、歴史と伝統なんでしょうか。確かに、多くの国民の皆さんは、国会議員は「お偉い先生」だと思っています。「皆さんはお偉い先生なのですから、どうぞ、何でも、好きにしてください」と言っているようなものです。お偉い先生は、「もちろん、好きにやらせてもらっています」と言っています。国民の皆さんは、お偉い先生の不祥事に眉を顰めますが、そもそも、それは、皆さんが認めているから、彼等は堂々とやっているのです。
本来、彼等は、外注先の社員にすぎません。仕事を発注している国民の皆さんが、外注先の社員の好き勝手を許していたのでは、いい仕事はできません。
これは、変人の私の言い分です。
でも、大阪府議会で「先生という呼称をやめませんか」という提案が議会で話し合われたというニュースがあります。
こんな馬鹿な提案するのは、維新の会くらいのものだろうと思いますが、提案したのが何党であっても、大阪府民としては、喜ばしいことだと思っています。ただ、この動きが、今後、どのような展開を見せるのかわかりません。提案者がその根っ子に気付いているかどうかもわかりません。それでも、一石を投じたことにはなると思います。

ある記事を転載します。
大阪府議会では21日開かれた議会運営委員会で、森和臣議長(大阪維新の会)と三宅史明副議長(公明党)から、議員を『先生』と呼ぶことについて、「『先生』という呼称は本来、教師や医者に使うもので、住民や職員との間で心理的な上下関係を生んだり、議員が『特別』だという勘違いの助長につながりかねない。今後は府議会全体の取り組みとして、○○議員や○○さんと呼ぶとするよう」議員に対し、これまで慣例的に使っていた『先生』という呼び方を使わない提案があり、議論が交わされました。
この中で、自民党の原田亮幹事長は「『先生』と呼ばれたいわけではないので反対はしないが…」とした上で、「ここ(大阪府議会)で決めても地元で(『先生』と)呼ばれるし、自分で律することが出来るかどうかだと思う。府議会で他にもたくさん議論しなければならないことがあるのに、こんなことをルール化しようと話し合っているのが、なんか恥ずべき事じゃないのか」「職員が(議員の)名前を覚えるのは大変そうだが」などという意見を出しました。
議会運営委員会の後、森和臣議長は「議員はあくまで選挙で選ばれてますが、府民の皆さんと対等な関係というので、そういうことを議員自身がしっかり分かっていかないといけないというのもありまして、『先生』はよくないんじゃないかな。今後は、職員などに名前を覚えてもらう努力もしないといけない」と報道陣にコメントしました。
今後、各会派で話し合い、28日の議会運営委員会で賛同が得られれば、その日に議員や大阪府庁の職員に通達を出すとしています。

記事によれば、自民党の議員は、「こんな提案は、恥ずべき事だ」と言っています。
大阪弁で言えば、「しょもないことを、言うな」ということなのでしょう。
でも、これは「恥ずべき事」なのでしょうか。
「自民党の先生、あなたは、何様なのですか」と問えば。
「俺は、お偉い議員様だ」という答が返って来るのかもしれません。
この提案は、他党の議員から出されたものですから「恥ずべき事」で済むのかもしれませんが、もしも、大阪府民から提案されたら、どんな発言をしたのでしょう。想像するだけでも不快ですから、やめておきます。
全国的なニュースになっている話題だけを見ても、国会議員の先生方も地方議員の先生方も、国民から見れば「恥ずべき事」しかしていないように見えていますが、どう整合性をとるのでしょう。
もっと言えば、ニュースにはなっていない「恥ずべき事」は山のようにあると思います。
もちろん、市民である私達に「恥ずべき事」はないのかというと、そんなことはありません。そう考えると、「先生」という呼称で、「恥ずべき事」を誤魔化してしまうのはいかがなものでしょう。ただ、「恥ずべき事」の比較をした時、比較するようなことではありませんが、私達市民の「恥ずべき事」は些細なもので、「先生方」の「恥ずべき事」には勝てません。そう考えると、やはり、なんか変です。
テレビでは、専門家の先生(どこかの大学の教授だったと思います)が、「先生と言う呼称が問題ではなく、実態が伴っていないことが問題なのだと思います」と答えていました。「先生という敬称に相応しい仕事をすればいいだけの話です」ということのようですが、そんなこと可能なのでしょうか。いえいえ、無理です。
どうも、専門家の先生も、議員と言う名の「先生」と同じ穴に住んでいるようです。

やはり、これも、歴史と伝統の副作用だと思います。
議員の先生方は、歴史と伝統に支えられ、自分は「一国一城の主だ」と思っています。
彼等は、自分が住民の、国民の、代弁者だとは思っていません。自分が「お上」で、住民も、国民も、「下々」だと思っています。
自分は、住民より偉い、選ばれた存在であり、住民から仕事を請け負っている外注先だという認識はないものと思います。
よく似ているのが、封建時代の「お殿様」の感覚なのだと思います。お殿様のルーツは封建制度にあります。日本の国体の基盤にあるのは、今でも、民主主義風王政並立封建制度だということです。民主主義とか王政という形容詞はついていますが、本体は封建制度です。
それは、これまで、国として、民主主義を定義しなかったからです。
昔の殿様も贅沢三昧をする殿様が一般的です。農民に優しい統治をした変わり者の殿様は「名君」と呼ばれました。数少ない、珍しい、殿様だったから、「名君」と呼ばれたものと思います。
封建制度下の国では、仕方ありません。殿様に反抗する庶民は処刑されてきたのですから、殿様には逆らえません。そのDNAが、まだ、生き残っているのでしょうか。

ただ、「先生という呼称は使わないようにしましょう」という提案は表層的なものに過ぎないということを理解して欲しいと思います。提案した議会運営委員会の議長でさえ、その根底にあるのは「議員とは、何」という定義不在だということに気付いていないと思います。
そう考えると、今回の提案は、意図したものではないと思いますが、大きな「問い」の入り口に立った動きだと思います。
その大きな「問い」とは。
「国とは、何ですか」
「国民とは、何ですか」
「民主主義とは、何ですか」
という「問い」です。
もう一歩、前に進めば、その「問い」そのものに気付くことができます。
「議員とは、何」「議会とは、何」という問いの答も見えてきます。もしも、議員が住民から住民生活を守るという仕事を請け負った外注先だとすると、誰も、外注先の社員を「先生」とは呼ばないと思います。
先生という呼称一つを見ても、私達の社会は「勘違い」の上に築かれているように見えます。「勘違い」という砂で作られた土台の上にある社会が壊れるのは必然なのかもしれません。私達は、自分の生活を守るために、そろそろ、封建制度は卒業しなければなりません。「お上が、何とかしてくれる」なんて願望は幻想にすぎません。崩壊した国が、「お上」が、庶民を救ってくれたなどという歴史は、どこにもありません。最後は、国民の皆さんが責任を取るのです。これが歴史であり、現実です。
ただ、「お上」に都合の良い歴史と「お上」に都合の良い伝統と、そして、「お上」に都合の良い文化という大きな壁があります。
その壁に遮られて、今日まで、まだ、誰一人、言葉の定義に気付いた人はいません。
歴史、伝統、文化が、この国を亡ぼすのだとすると、間違いなく亡びると思いますが、とても、悲しいことだと思います。
もしかすると、「問い」に気付くだけで、その運命を変えることができるのかもしれないのに、歴史、伝統、文化がそれを遮っているとすると、本末転倒だと思います。
「問い」に気付き、挑戦し、目的と責務を見つけ、亡国を防いでほしいと思います。
ま、奇跡なのでしょうが、願わずにはいられません。


2022-10-06



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